花ざかりの森。

物書き・伊織花純(硴水巴菜)の情報や小説置き場です。

BAD-Capsule

 ふしゅっと蒸気の音がする。噴き上がる黒と白の煙が交ざり合い、いつの頃からか青い空は見えなくなった。食堂の前に植えた花々たちもしょげている。水をやりながら彼は全身から絞り出すような溜め息をひとつ。

「花にも動物にも人間にも青い空や綺麗な空気は必要なのに」

 それを諦めてまで、求める明日ってなんだろう。ひとは自分で掴むために二本の腕があり、二本の足があるのに。機械がそんなに必要なのだろうか。
 俯きかけた赤い花をそうっと撫でて、彼はもうひとつ溜め息をつく。
 ごほっ。
 ごほっごほっ。
 乾いた咳がはじまった。
 機械と蒸気がかえって人びとの未来を奪っている。みんな気づいているのに、なぜ見ない振りをしようとするのだろう。
 彼はベストのポケットから青いカプセルをふた粒取り出す。ぎゅうっと握り締めて、その硬くて柔らかい感触にぞくっとする。こんなもので命を繋ぐ我が身が情けない。

「おはよう」

 いっそカプセルを握り潰してやろうかと考えていたら、背後から擦れたような低く重たい声がした。
 彼は、咳を堪えながら、わざとらしく溜め息をついてみせた。背後の男がくくっと笑った。

「おはようと言ったのに、お返しはそれか」
「毎日様子を見に来なくていい」

 彼は吐き捨てるように言い放つと、食堂のドアノブをひっつかんだ。男に一瞥すらくれず、引き開ける。ずずっと錆びついた音がした。
 ――まるで、俺の断絶魔みたいじゃないか。
 彼はカプセルをわざと手のひらから落として、つま先で蹴り上げた。ごほっと一際大きな咳が出た。咽喉の奥、肺の入口あたりが重たく軋む。疼痛が奔る。
 たぶん、いちばん人間らしい部分だからこそ痛むのだ。

「おいおい」

 男は呆れたように呟いて、カプセルを拾い上げる。節の目立つ大きな手のひらが彼の眼路を過った。

「そんなに死にたいのか。愚か者が」

 男は彼の腕をぐっと掴み、カプセルを握り込ませた。あっさりと彼のテリトリーに侵略してきたのだ。

「誰もが望むものを持っているのに、自ら捨てるな」

 男は かっと熱く尖ったものが眼球の裏側にぶつかった。思考は滾る。苛立ちとヒステリックな叫びが弾け飛んだ。

「誰がそうしてくれと望んだっ!」
「それでは死にたかったのか」
「そのほうがずっとマシだったなっ!」

 彼はカプセルを男に向かって投げつけた。
 真黒なスーツに漆黒のフロックコート。ひょろりと背が高いから、まるで誰かの影のようだ。煙の向こう側に閉ざされてしまった空みたいに、青く澄んだ瞳がじっと彼を見つめている。
 彼はぐっと睨みつけた。

「ひとは、そう遠くないうちに機械によって救われていくのだ。おまえはその最初の一歩ではないか。胸を張れ。堂々と見せびらかして生きればいい」
「……俺は人間じゃないだろうっ、もうっ!」
「人間じゃない? ちゃんと肌も髪も手足もある。言葉も喋れる。心臓だって動く。どこからどう見ても人間にしか見えない」

 男は薄い唇をすううっと引き上げた。蛇の顔によく似ている。病院ではじめて会ったときと印象はなにも変わらない。その気持ちに従って、あのとき首を横に振ればよかった。

「それでも人間じゃない! 工場の底にある蒸気と同じだっ!」

 彼は足元に転がって来たカプセルを力任せに踏みつけた。ぷちゅっと熟しきった果実がつぶれるような音がした。

「あんたらみたいな科学だ医療だ技術の進歩だってほざく奴らが機械なんてものを作って、ひとから仕事を奪い、工場の蒸気で空を奪って、人間の生命さえ弄んで奪っていくんだっ」
「結果、病気が恐ろしくなくなる。どこがいけない? 大切なひとを失って嘆くこともなくなるんだぞ」
「それは……っ」

 男の言葉に返すべき怒りがうまく形にならなくて、彼は俯いた。

「恐れることはない。自分を恥じることもない。そのうち、ひとはみな、おまえと同じように変わっていく。そうやって救われるのだ。心も身体もなにもかもすべて」

 男は穏やかに言い切ると、彼の頭をふわりと撫でた。

「わたしは、おまえを病気に奪われたくはなかった。嘆き暮らすのはいやだった。病床の我が子を助けたいのはどんな親も同じだ。そうしてやれる技術をもつのなら駆使する」

 男は小さく溜め息をつく。

「それが……父親というものだ」

 


                  END