quartetto~四兄弟狂騒曲~(5)
翌朝――。
あんな光景を見ちゃった割にはぐっすりと眠れたのは、量也兄の泰然自若の影響が強かったからみたいだ。
眼を覚ますと、まだ皆、眠っていた。
俺は、しばらく天井を見上げた後で、誰も起こさないように気をつけて起き上がった。
朝風呂に入って、更にさっぱりしようと思った。
昨日の量也兄の言葉で、降り積もっていた鬱屈や困惑はだいぶ霧消していたけれど。もう一度、自分に言い聞かせるつもりだった。
勇仁兄と梓のことは、少しだけ眼をつぶろう。ほんの少しの間だけ。
その間に、きっと答えが出る。出してくれる。
二人とも俺よりずっと頭がイイんだから。
大丈夫だ。大丈夫。
だって、兄弟なんだから。信じていたらいい。
もう、ぎゃんぎゃんは言わない。
そんなことを考えながら、俺は久しぶりの大きな風呂を満喫していた。
昨夜も思ったけれど、やっぱり手足を心置きなく伸ばせる大きな風呂ってイイ。古い家だから家風呂は、最近のものに比べれば大きいけれど、それでも、こんなふうに自由には伸ばせない。
少し熱いくらいの温度もいい。
身体がほぐれる。
と、同時に、俺の中に詰まっていたワダカマリ――特に梓への――もほぐれて、溶け出すようだった。
俺は、ブルーのタイルに頭を預け、安堵の息とともに眼を伏せた。
次の瞬間だった。
いきなり、思いっきり、お湯を顔にぶっかけられた。
「っ、つっ……ッ! な、なにするんだよッ!」
俺は飛び上がった。
「なんだ。寝てるのかと思ったのに」
感情の薄っぺらい声に、双眸を顰めると、梓が立っていた。洗面器を持って、曖昧に笑んでいる。
「ふざけんなッ! バカ梓ッ!」
俺が声を張り上げると、
「それでも、諒くんよりはバカじゃない」
なんて、しれっと言って、湯船に入って来た。
梓は、一歳上の俺のことを、言葉を覚えてから一度も「お兄ちゃん」とか「兄貴」とか呼んだことはない。ずっと「諒くん」である。
もっとも、俺たちはどう言った奇跡なのか、ただ単に両親の仲が良かっただけなのか、同じ年の一月と十二月に生まれているのだ。生まれが近過ぎて兄とは呼びにくいのだろう。
だから、俺は別に呼び方を変えろと言ったことはない。
その所為で、小馬鹿にされるようになっちゃったのかも知れないけど。
「なんだよ、それ。イヤミだな。そんなの、今更口に出さなくても、わかってるよ。お前と俺じゃ、脳味噌雲泥の差だってことくらい」
俺は、むっとして、また湯船に浸かった。
ちょっと敬遠する気持ちがまだあって、少し梓からは離れた。
「でも、人間としては、諒くんの方が全然、デキがいい」
「え?」
思いがけない言葉だった。
俺は梓を凝視した。
梓は、濡れた髪を弄りながら、横目でちらりと俺を見た。
こんな状況で思うことではないけれど、端正な顔だなと痛感させられた。目付きが少しキツイが、それさえ取りようによっては上品に見える。
「上手く笑えないし、人に優しくも出来ないし……」
「誰が?」
「俺……」
低く呟いて、梓はざばざばと顔を洗った。
「そんなことで、デキがいいとか悪いとか言わないと思うけどなぁ。普通、世間では梓みたいに医学部ストレートをデキがいいって言うんだよ」
「……辞めたから」
「あ?」
「医学部」
「マジでッ? なんでよ。せっかく受かったのに」
これまた思いがけない言葉を聞いて、俺は爆ぜるように梓に飛びついて行った。とてつもなくでかい水飛沫が上がって、梓は双眸を顰めた。
「俺に合わないから。わかってただろ。諒くん、一番止めてたんだし」
「それはそうだけど……でも、受かったんだよ」
「受かってみて、余計にわかった。俺には合わない。医者になって、人の命を預かる根性も勇気もない」
「じゃ、どうすんの?」
「どうするって?」
梓が不思議そうに俺を見た。まっすぐな純粋な瞳だった。
こんな眼をする梓を見るのは、大きな風呂に入る以上に久しぶりのことに思えた。
そう言えば、こんなに素直な眼をしていたんだ。
仔犬みたいになつっこくて、可愛くて。
だから、俺は一歳も違わない同じ年に生まれた弟が大好きだった。
どんなに小馬鹿にされても、小憎らしいことを言われても本当には嫌いになれなかった。悪態をつきながらも、梓の行動や言動が気になってならなかったのは、この眼を何処かで覚えていたからだ。
それは、多分、勇仁兄も量也兄も同じで、二人は大人で冷静な分、無理をしている梓の言動も見抜いていたに違いない。
だから、梓も、勇仁兄と量也兄にはちゃんと素直だったのだ。
意地を張り合っていたのは、子供な俺たちだけ。
なんか、急に照れ臭くなって、俺は顎まで深々と湯に浸かった。
「いや……ガッコ辞めて、これからさ」
「う~~ん。とりあえず、大学入り直す。今度はちゃんと自分の好きな文学部受ける」
梓も照れ臭そうに笑った。
口角が少しだけ引き攣ってるように感じたけれど、確かに笑っていた。
意地とワダカマリが一気に溶けて消えていく。
「文学部か~~~いいかもね。梓、本好きだし。うん。その方がいいよ。無理してない感じで」
「だよね」
梓は肩を竦めた。
懐かしい仕草だった。
子供の頃、悪戯を見つけられたり、困ったりすると、梓はこうやって肩を竦める仕草で誤魔化した。それで皆に許されていた。邪気のない子供だった。
「……それからさ、勘違いさせたと思うけど、兄貴とは何もないからね」
「えッ、だって……あの滝のとこで」
「あれは、眼にゴミが入ったの。で、兄貴に取ってもらっただけだよ。なんか、諒くん、キスシーンだと思ってるみたいだから、気まずくなっちゃって……」
「な、なんだよ~~~だったら、そう言えよ~~~最初に~~…でも、ホテルから出て来たって量也兄が、言ってたぞッ」
納得しかけて――でも、まだ例のホテル目撃談が片付いていないからと、自分を奮い立たせて、俺はばちゃんと湯を叩いた。
「ホテル?」
反芻して、梓は宙を見上げた。
もわもわと立ち昇る湯気を見定めるような顔をしてから、はっとしたように頷いた。含み笑いまでつけて。
「なんだよ。誤魔化されないからなッ。ホテルから出て来たのはほんとなんだろッ」
「ほんとだよ」
梓はまだ笑っている。
俺は、ちょっとむかついて、梓に思い切り湯をかけてやった。それも何度もだ。
梓は身体を逃がしながら、なおも笑っていた。
「梓ッ」
「ああ、ごめん。ごめんッ」
降参とばかりに両手を上げて、梓は湯船の縁にずり上がった。ちょこりと座って、ずぶ濡れの髪をかきあげる。
「あれね。別に部屋を使ってたわけじゃないよ。ラウンジ」
「へッ?」
「大学辞めたって報告してたんだよ。いきなり、皆の前で言うより、まずは兄貴に言うべきだと思ってさ。保護者なんだし」
「なんだよ~~~もぉ~~~」
俺は拍子抜けして、頭を湯船の縁に預けた。
「でも、量也兄にも言ってあるんだけどな。量也兄もお客さんと来てたから、ラウンジでばったり会ったし」
「え、ええッッ!」
俺は素っ頓狂な奇声を発して、頭を起こした。
知ってただと~~~?
知ってて、あんな言い方したのかよ~~~ッ。俺をおちょくったってことだな~~。馬鹿量也ッ!
覚えてろよ~~~ッ!
そりゃ、余裕綽々、泰然自若だよ。
だって、ほんとのこと知ってんだから。あんな暢気にもしてられるさ~~。
リベンジしてやるからなッ!
そのとき――浴場の扉が開いた。
「解決したか~~~?」
そ~~んな暢気なことを言いながら、入って来たのは勇仁兄と量也兄だった。
二人ともにやにやといや~な笑みを湛えていた。
俺は一気に頭に血が上って、
「五百万回ぐらい死にやがれッ! 馬鹿兄貴どもッ!」
と、叫んでしまった。
だだっ広い大浴場に、俺の叫びだけがわんわんとこだました。
馬鹿兄貴どもに、長々とらしくもない説教をした所為で、俺たち兄弟は湯当たりを起こし、その日大半を棒に振った。
予定していた観光は八割出来なくなった。
美味しいご飯も、二日目の夕食と最後の朝食だけしか食べられなかった。
それでも、今回以上に、楽しくて有意義な家族旅行は初めてだったように思う。
こんな馬鹿兄貴二人と、兄を追い越す遠慮なしの弟でも――ああ、でも、梓はまた受験し直すんだから、ちゃんと順列通りに戻るんだ――俺にとっては本当に大切なかけがえのない兄弟だと、改めてわかったから。
なんだか、早く家に帰って、仏壇の両親に手を合わせたい気分だった。
口に出しては、面映くて言えないけど、せめて、腹の中で伝えておこうと思う。「この家に生んでくれてありがとう」って。
帰りの東北本線の車内で、さんざんじゃれ合ってふざけ合った梓が疲れて眠ってしまうと、俺は、向き合いのシートに座って雑誌を捲る量也兄の膝を叩いた。勇仁兄もぐっすりと眠っていた。
「ん?」
驚いたように、量也兄が顔を上げた。
「当ててくれてありがと」
「なんの」
俺の言葉に、量也兄は嬉しそうに微笑んだ。心の底まで和ませる優しい表情だった。
「今度は、ハワイ旅行当てて」
「調子に乗るな」
俺はへへっと笑って、車窓に視線を走らせた。
見慣れない――東京ではまず見られない。だからこそ素直になれたのだろうけれど――緑が大半を占める風景が、柔らかく流れ過ぎた。
また明日から、講義がない日に早く叩き起こされても、素直に起きてやろうと思った。
せめて、一ヶ月くらいは。