我、我のために死せり
「俺は天皇陛下万歳なんて言わない」
彼は呻くように呟いて背を向けた。
かっちりした仕立ての黒い海軍軍服の下で、逞しい肩幅が窮屈そうに上下した。
「水野…?」
俺は小さく問い返して、彼を覗き込もうとした。
彼はさらりを顔を逃がした。
「軍人として恥でもなんでもいい。俺は天皇陛下のためなんぞ死なない」
「お前、なに馬鹿なこと…」
「馬鹿なこと? それはどちらだ? 他の国を侵していい正論などあるか? 国民の犠牲の上に成り立つ大義など正しいのか?」
彼は憑かれたように一気に捲くし立てた。
言ってはいけないことだ。口に出すこと自体が咎められる。
例え、思っていても、言葉にした時点で「非国民」と詰られる。
尉官以上の階級を掲げた将校であっても。
「どうしたんだ、いったい?」
「どうもしていない。最後に来て、すべてがはっきり見えるだけだ。まやかしの大義のためには死なん」
中尉の階級章を載せた肩が軋んだ。
端正な横顔が青褪めて震えているように見えるのは、奥歯を強く噛み締めているからだろうか。
なにを抱え、なにを堪え、なにを苦しんでいるのか。
最後と繰り返す眼差しがいつになく遠い。
海軍兵学校で出遭ってから6年――――毅然と常に前方を見据えている美貌には強烈な磁場があった。悠々と首席を通す優等生振りの裏で、適度の悪さもする。妙なカリスマを持った男だった。
俺は、誰もが羨望の眼差しで見つめる同期生の彼に――――水野誠に焦がれた。どうしようもなく惹かれた。戻り道を見失うほどに。
彼はいつでも俺より前にいた。弱みを見せることなどなかった。
いまだって、隊内では相変わらず毅然としているのだろう。
弱音らしきものを吐けるのは、俺が肺を患い、この戦況下にありながら退役を余儀なくされられた存在だからだ。
誰にも、この刹那の弱音が知られないからだ。
「……らしくないな」
「らしい? らしい俺とはなんだ?」
「それは……」
俺は口ごもって俯いた。
刹那、視界が鈍く翳った。
驚く間もなく、ぬくもりを旋毛のあたりに覚えた。
退役後、刈り揃えることをしなくって、髪はだらしなく伸び切っている。
端然と整えた彼に触れられるのは恥ずかしい。
俺は逃げるように身体に力を込めた。が、逃れられなかった。
彼はまるで力を加えていなかったけれど、俺の中のなにかが彼と離れたがらない。
たぶん、そう言うことだ。
「俺たちを守ってくれない国のために、何故死ねる?」
「水野……?」
「なんと言われてもいい。俺は国やら天皇やらのためには死なない。誰かやなにかを守るために死ぬなんて綺麗ごともまっぴらだ」
そこまで言い切って、彼は大きく息を吐いた。
灼熱めいた吐息が髪を揺らすのがわかる。
「俺は俺のために、俺が生まれて生きて来た証のために死ぬ」
「……特攻は、本当なんだな」
「……………」
饒舌だった彼が、問いかけには答えなかった。
刹那、弾けた鼓動だけが遠巻きに答えを伝えて来た。
「もう戦争は終わる。もう日本は持ちこたえられない」
「わかってて、特攻なんか志願したのか」
答えを得られないとわかっていたから、俺はせめて身を起こして彼の顔を見定めてやろうと思った。
感情の薄い彼の双眸の底の真実を読み取る自信はないが、ひょっとしたらいまなら見えるかも知れない。
だが、今度はがっちりと彼の腕に押さえ込まれた。
退役して三年の軍人と現役軍人の力の差は歴然としている。払い除けられるはずがない。
「桜を見ずに行くのが心残りだ」
「だったら…」
「行くなとか女々しいことを言うなよ。俺は俺の命の後始末をつけに行く。行かなきゃならん」
彼の声が僅かに震えた。
言葉と裏腹に本当は迷っている。
呼吸が痛いほど苦しくなった。
「今年の桜だけは、俺の墓に供えてくれ」
「来年も再来年も、俺が生きている限り、お前に桜を届けに行く」
俺の言葉を聞いて、彼は低く自嘲気味に笑った。
「今年だけでいい」
「水野?」
「年内で日本は負ける。そして生まれ変わる。敗残の将に生まれ変わった国の桜は似合わない」
彼はそう言い切ると、俺の身体を離した。
すぐに軍帽を深く被り、くるりと背を向けた。
「水野……?」
「お前はお前のためだけに生きろ。利己主義だと詰られても。お前の命はお前だけのものだ」
彼はきっぱりと言い切ると、いつものように毅然と前を向いて歩き出した。
軍靴の音が静かに耳に残った。
俺は彼を追わなかった。
いや――――追えなかった。
水野誠が乗船した戦艦大和は、昭和20年4月6日に出撃したが、翌7日に米艦載機386機による波状攻撃を受け、午後2時23分、九州坊ノ岬沖90海里の地点で2498名の乗組員と共に海底深く沈没した。
その4ヵ月後、日本は無条件降伏を受け入れ、数多の命を翻弄した第二次世界大戦は終わりを告げるのである。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
(日本国憲法前文より)