花ざかりの森。

物書き・伊織花純(硴水巴菜)の情報や小説置き場です。

quartetto~四兄弟狂騒曲~(1)

 

*結構前に書いた2万文字くらいの中編寄りの短編です。 

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「ちょっと、いいか?」


 ナイターを観ていた俺、深水諒の背後で、遠慮がちな声がした。
 俺がナイターを観ているときは――それも、巨人が負けているときは特に――声を掛けてはいけないと言うのは、我が家の数多い不文律の中に含まれているはずだ。
 それなのに、この内海が打ち込まれている七回表の状況で、声を掛けるとは、自殺行為に近い。
 そう思いながら、振り返ると、申し訳なさそうに次兄の量也が佇んでいた。手にはコンビニの袋をぶらさげている。

「なんだよ。今、野球観てるんだけど」

 俺は、長兄・勇仁に対してなら絶対に吐けないであろう悪態口調で答えた。この次兄には、大抵の言動が許される。
 人がいいと言うか、お人よしと言うか、優しいと言うか、全部と言うか。
 とにかく、次兄は扱いやすい。多少、ゾンザイにしても問題がないからだ。

「わかってる」
「わかってんなら、後にしてよ。今、巨人ヤバイんだから」
「それもわかってる。わかってるけど、緊急事態なんだ」
「緊急事態?」

 俺が興味を持ったと思ったのか、量也兄はずかずかと入り込んで来て、すとんと俺の隣に座った。
 もっとも、ここは皆が自由に使える居間なのだから、入るのは自由だ。逆に言えば誰にも占領資格はない。
 その距離があまりに近くて、俺は少し身体の位置をずらした。

「ずれないで」

 すかさず、腕を掴まれて、引き戻された。

「……なんでだよ」
「大きな声では話せない」
「はぁ?」

 俺は少々、訝しげに量也兄を見やった。
 量也兄は、かつてないほど深刻そうに眉根を寄せていた。

「大きな声で話せないったって、今、家には俺らしかいないよ。兄貴と梓、出かけてるもん」
「そ、その兄貴とあずの話なんだよ」

 量也兄は、俺の言葉を受けて、急に興奮したような口調になった。酒を飲んだときのように呂律もあやしい。

「二人、一緒に出かけた?」
「わけないだろ。兄貴は仕事。梓はガッコ帰って来てから、図書館」
「でも、一緒にいた」
「誰が?」
「兄貴とあず……」

 そう答えると、落ち込んだように、量也兄はテーブルにコンビニの袋を乗せた。
 俺は、袋の中を覗いて、豆大福を引っ張り出した。何も言ってはいないが、この雰囲気からしてこれは俺に買って来てくれたものだ。

「これ、もらうよ」
「うん……どうぞ……」
「いてもいいじゃん。別に。どっかで偶然会ったんじゃないの。なんで、落ち込んでんの?」

 俺は豆大福のパッケージを剥ぎながら、視線をテレビに戻した。
 無死満塁のピンチは相変らず続いていて、マウンド上の内海の元に捕手が歩み寄るところだった。

「……ホテルから出て来た」
「あ?」

 量也兄の言い出した言葉の意味を図りかねて、俺は間の抜けた返事を返した。視線はナイターの画面に据えたまま。

「だから、ホテルから出て来た」
「ホテル? 誰が?」
「何度も言わすな。兄貴とあずだ」

 思わず、俺はぎくしゃくと顔を振り向けた。

「まさかぁ」

 量也兄はなんとも答えずに、ただ厳しく顔を歪めた。

「誰かと間違えたんじゃないの?」
「間違えてない。今日の兄貴は白地に紺のストライプのシャツだったろ。で、あずは白いTシャツ」
「そんな恰好珍しくないだろ」
「でも、兄貴たちだったッ!」

 量也兄が珍しく、大きな声を上げた。
 そのときだった。
 玄関の引き戸が開く轢音が響き、

「ただいま~~ッ」
「ただいま」

 長兄の勇仁と末弟の梓の声がした。
 俺の手から豆大福がぽろりと落ちた。

quartetto~四兄弟狂騒曲~(2)

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 東京に入梅宣言が出されて一週間。
 もちろん、そんな季節でも我が家の朝は変わらない。
 午前六時半になると、隣の部屋で目覚ましが鳴り響き、無視しきれずに目覚めてしまった我が身を呪いながら、咽喉の奥で「五月蝿い」と繰り返す。
 隣室の弟が、そのキャラクター通りに端然と階段を降りて行く足音に舌打ちして、二度寝の体勢に入る。
 が、その柔らかで心地好い感触も、十分と経たないうちに起こしに現れる二人の兄のうちのどちらかに、あっさりと壊される。
 それが、我が家の朝。
 一年三百六十五日、まるで変わらない。
 そう、まるで変わらないのだ。
 土日だろうが、春休みだろうが、夏休みだろうが、冬休みだろうが。もちろん、ゴールデンウィークも言わずもがなだ。
 世間がのほほんと過ごしている休日でも、我が家だけはウィークディ状態。
 寝坊も怠惰も許されない。
 両親がいないから、いい加減だと思われては困ると言う長兄・勇仁の考え方なのだが。巻き込まれるこっちはたまったものではない。
 テレビや雑誌で見かけるような「だらけた生活」とやらをたまにはしてみたいと思ったとしても、バチは当たらないはずだ。
 でも、そんな口答えが出来るはずがない。
 だって、我が家では勇仁兄が法律なのだ。
 ましてや、三流大学に入るのにさえ一浪した上に、いきなり進級単位を三つも落とし、留年までしてみせた兄弟一の劣等生だ。反論の余地などない。
 これが、ストレートで国立の医学部に合格した、絵に描いたようなエリートの末っ子の梓なら、多少は抗うことも出来るのだろうけれど。
 梓には、とにかく勇仁兄が甘くて、ときどき不快に思ってさえいた。
その理由は、つい最近、おぼろげながら輪郭が見えて来た。
 認めたくない形で。

「起きろ! 時間だぞ!」

 今朝、起こしに来たのは勇仁兄だった。
 彼は、一見穏やかで優しい顔をしていて、融通の利きそうな柔和な印象があるが、実は、一番難しい。
 誰もが、優しくてイイお兄さんだと言う。基本的にはそうなのだが、同時に俺が「苦手」なのも長兄なのだ。こっちの要求が通りにくい。甘えが許されない。穏やかな口調のスパルタと思ってもらえたら間違いがない。
 これが次兄の量也兄ならば、優しくてイイお兄さんのまんま、読んで字のごとくと言うやつで、俺のワガママが通り放題になるのだ。
 その量也兄の、例の目撃談以来、俺はますます勇仁兄に対する気まずさを増加させている。
 食事の席がちょうど正面になるのだが、それさえ気まずくて、勇仁兄が普通以上に普通なのが更に染みて、顔が上げていられなかった。

「時間って……今日、土曜。ガッコ、講義ないんだけど」

 俺が殊更逃げ込むように蒲団に潜り込みながら、そう言うと、勇仁兄は、

「講義なくてもカンケーないっていつも言ってるだろ。土日だからって怠けたら、戻すのに五日かかるんだ。それで一週間潰れるんだぞ」

 と、いつも通りの口振りで、持論を振り回した。
 それが正しいとか間違っているとか、そう言う次元の話はもう超越していて、我が家では「こう!」なのである。逆らったって跳ね返される。
 我が家では、電気の点けっ放しより、お風呂の水を洗濯に使わずに排水しちゃうより無駄なことだった。
 だって、長兄が法律なのだから。
 え。
 ってことは、勇仁兄が梓と、そう言う関係――どう言う関係かは改めて口にしたくもない――に陥ったとしても、まかり通ってしまうってことなんじゃ?
 そりゃまぁ、俺たちは、半分だけしか血が繋がっていなかったり、連れ子だったりと、普通の兄弟とはだいぶ違う。
 ちなみに、勇仁兄と量也兄がそれぞれの連れ子で、俺と末の梓が両親の間に生まれている。つまり、上二人と下二人は半分ずつ同じ血を持つ兄弟と言うやつだ。

「もう皆起きてるぞ。さっと起きて、さっと飯を食え。で、今日は天気がいいんだから蒲団を干せ。あと、その辺に丸めて脱ぎ捨ててるシャツとか靴下とか洗濯機に入れろ」
「そんなにぽんぽん言うなよ。まだ頭働いてないのに」
「意味もなく深夜までテレビ見たり、ゲームしたりしてるからだろ。だから、朝すっきり起きられないんだよ」
「うえぇ~~~ぇ。もういいよ~~。寝起きに説教なんか」

 黙っていたらと、言うより、このまま蒲団に潜っていたら、朝七時そこそこから説教で埋められそうな気がして、俺は勢いをつけて起き上がった。
 心地好い蒲団から抜け出すのは、はっきり言って、かなり勇気がいる。この世で一番安心できて、幸せなのは蒲団の中だ。
 少なくとも、俺はそう信じている。
 もっとも、そんなことを欠片でも口に出したら、頑固な勇仁兄の説教に拍車がかかるに違いないから、口には出さない。
 なにしろ、彼に言わせると、蒲団の中がこの世で一番好きなんて人間は怠け者らしい。

「起きたな。ちゃんと着替えて降りて来いよ」

 勇仁兄は、俺に人差し指を突きつけてから、くるりと踵を返した。

「はい、はい」

 俺は唇を尖らせて、ちょっとばかり適当に答えた。

「返事は一度!」

 すかざず、そう切り返されて、俺は心底から面倒臭いと思った。
 何から何まで世話になっているしっかり者の長兄は、頼りになるけれど、同時に鬱陶しくもあった。重箱の隅を突かれるからだ。そんなのどうでもいいじゃん、と思うようなことでも、この長兄にかかると大きな家族間の「議題」になってしまう。
 もっとも、量也兄が目撃した梓とのことをが~~ッとぶちまけたら、俺と勇仁兄の立場は瞬時にして反転して、彼ら二人のしたことの方が、でかい「議題」になるに違いない。
 でも、こんなつまらない状況で切り札を出しても仕方がないし、まだ確証が少な過ぎる。一度の目撃では「絶対」とは言い切れないのだ。

「……はいッ、わかりましたッ」

 俺が開き直って答えると、ちょうど階段を上がって来る誰かの足音が聞こえた。
 乱れた髪を掻き毟りながら、開け放たれた襖――亡き両親が残した古い建売住宅は一方的に日本間が多い。貴重なフローリング敷きの洋間は、梓が医学部に合格した途端、彼への優遇処置が生まれ、当然のごとく彼の部屋になった――の向こうに、階段を昇り切った、梓の姿が見えた。
 どきりとした。
 ベージュの薄手のサマーセーターにジーンズ姿。早朝から眠気の欠片もないさっぱりした顔をして、その上、何処となく冷めた双眸で、まだ寝惚けている俺を嘲笑うように見た。
 いつも通りに。
 そう。いつも通りだ。
 この年子の弟は、身長も態度も口調も、悔しいことに脳味噌もあっさりと追い抜いてしまった。まぁ、医学部ストレートの脳味噌なんだから、端から敵うわけはないのだが。
 以来、すっかり、俺を小馬鹿にしている。
 子供の頃は、べたべたと纏わりついてきて、何処に行くのでも俺にくっついて来ていたくせに。
 はっきり言って、かなり可愛かった。
当時は、標準より明らかに小さくて細くて、良く笑って良く泣く表情の豊かな子供だった。顔立ちは整っていたから相当に目立ったし、連れて歩く俺の方も自慢だった。
 だからってその頃が懐かしいわけでも、戻りたいわけでもないけれど、ここまで急変しなくてもいいんじゃないか、くらいは思う。なんか、すごいレベルの高い手の込んだ詐欺に合った気分だ。
 どうして、こんなに変わることが出来るのか。
 変わらずに生きていると自負している俺からすると、弟の変貌は無気味でさえあった。
 挙句、長兄とデキちゃったてんだから、全くお見事な優等生詐欺師だ。
 今に見てろよ。
 証拠掴んで、ぎゃふんと言わせてやるからな。
って、実際に「ぎゃふん」と言うヤツを見たことはないけどさ。
 なんにしても、いつまでも、そんな取り澄ました顔でいられると思うなよ~~っ!
 な~んて思っている俺を置き去りに、勇仁兄は階段を昇り切った位置で立ち止まっている梓に近づいて行った。

「もう、飯済んだのか?」

 そんな普通の話なのに、勇仁兄は何故か梓に耳打ちをするような体勢を作った。
 梓は首を傾げて、ふんわりと笑った。何処となく甘えて、媚びているような。
 俺には、少なくとも、中学校に上がったくらいから俺に対しては、こんな表情を見せたことはない。
 もっとも、上の兄たちには、常にいい子でい続けているらしく、二人の口からは梓を誉める言葉しか出てこない。
 そりゃ、医学部に進んだ上に、奨学生扱いで授業料免除の弟が自慢でないはずがないから、それは仕方がない。更に四兄弟の末っ子となれば余計だろう。
 でも、ちょっと過保護にし過ぎじゃないかと、最近は思うようになってもいた。
 僻みじゃない。
 僻みなんか抱いたりはしないけれど、挫折も苦労も知らなければ、怒られたこともない優等生は踏み外したときが怖い。軌道修正のコツを知らないから、簡単に奈落を見てしまうのだ。
 そして、二度と立ち直れない。
 そんな風に育てちゃっていいのかよ、と思う。
 自慢じゃないが、俺は軌道修正なら大得意だ。浪人生活のときも、さすがに二浪はやばいと思ったから狙いを定めていた学部以外も片っ端から受けまくった。お陰で見事に合格はしたものの、希望学部以外だったものだから、単位取得に四苦八苦している。痛し痒しってところだ。
 こんなところから見ても、たぶん、俺は兄たちの――特に二十歳前に自分の店を持ってしまったようなやり手の勇仁兄には――望むようには育たなかったのに違いない。
 だから、自然に彼らの意識は優秀な末弟へ向かった。

「午後空いてるか?」
「空いてるよ」
「じゃ、また店手伝いに来てくれ。いつも悪いけど。飯奢るから」

 今度は勇仁兄が媚びるように言った。
 梓は無邪気に笑い返すことで承諾して見せた。
 なんなんだ。これは。
 ちょっと待てよ。
 一見普通の会話だけど、なんかいちゃついてる感じじゃないか? まるで付き合い始めの恋人同士じゃないか?
 マジで、マジで、ちょっと待てって。

「いいよ。気使わなくても。飯食ってから行くから」
「だって、バイト代出ないんだぞ」
「いらないって。そんなのは」

 梓は驚くほど眩く微笑んだ。こんな風に微笑んでいると、俺に向ける嘲るような態度など嘘みたいに思える。
 裏表あり過ぎじゃないか。こいつ。いくらなんでも。
 なんで、こんな人間になっちゃったんだ。全く。
 可愛かったじゃないか。あんなに可愛い弟だったじゃないか。遠い昔の話だけど。十年くらい前の話だけど。
 俺は、ものすごいジレンマと苛立ちに襲われた。

「バイト代なくても困んないから」
「ならいいけどな」
「何時くらいに行けばいい?」
「いつもと一緒でいいよ。一時過ぎくらいで」

 そう言って、勇仁兄は、梓の項、それも髪の生え際の辺りをきゅうっと掴んだ。
 梓は、まるで飼い主に撫でられた仔犬のように心地好さそうに身を捩った。
 うげっ! なんだ! なんなんだよ! それ!
 おかしいだろ! その触れ方はッ! 応え方はッ!
 普通の兄弟の雰囲気か! それがッ!
 おかしいから! マジに普通におかしいから! お前ら。
 俺は、腹の底で幾度も繰り返し二人にツッコミを入れ続けていた。

quartetto~四兄弟狂騒曲~(3)

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「やっぱ、おかしいわ。あの二人」

 夜の仕事をする量也兄と粗末な昼食を済ませ、インスタントのコーヒーを飲みながら、俺は切り出した。
 口うるさい長兄も、人を小馬鹿にしたような末弟もいなくて、本当ならバラエティの再放送でも見ながら、のほほ~んと過ぎていくはずの午後。
 俺はのほほんどころではなかった。
 今朝、見てしまった光景と、量也兄の目撃談が脳裡で駆け巡り、拡大膨張していく。

「だろ?」

 量也兄は無造作に答えて、コーヒーを啜った。
 もうちょっと話にノッテ来ると思ったから――だって気にしてもいなかったネタに火をつけたのは彼の方なのだから――俺は少し拍子抜けして、量也兄を見据えた。

「なんだよ。もっと話広げろよ。この話を持ち出したのはそっちだぞ。聞かなきゃ気にならなかったのに!」
「広げてどうすんだよ。本当にそうなっちゃってんなら仕方ないじゃないか」
「仕方ないとか言うなよッ。兄弟だぞッ」

 俺はばんっとテーブルを叩きつけた。
 そうなっても仕方がない? 兄弟なのに? 
 そりゃ半分しか血は繋がってないけどさ。兄弟だぞ。きょうだい!
 戸籍上でもちゃんとそうなっている。
 兄弟でそれが許されるのなら、世の中にタブーなんかないじゃないか。好き放題だ。無法地帯だ。

「親父やお袋に顔向けが出来ないッ」

 俺は更にテーブルを拳で叩き続けた。
 マグカップがかたかたと鳴って、テーブルやら新聞やらテレビのリモコンやら、俺の手の甲やらに飛び散った。

「諒。お前、結構古いこと言うね」

 暢気な口調の裏に、何処となく呆れた色彩を宿して、量也兄が呟いた。

「はぁ? 古い? 古いとか新しいとかって問題じゃないと思いますけど~~~?」

 量也兄の言葉が理解出来なくて、俺はいつになく険のある言い回しになった。語尾が自分でも哀しくなるくらい尖って響いた。
 なんだか切なくなった。
 こんな言い争いなんて。
 兄と弟がデキちゃって、その話をもう一組の兄と弟がしている。不思議で歪んだ構図。普通の兄弟なら、絶対にあり得ない。
 だって、オカシイだろ。おかし過ぎるだろッ。
 別に逮捕はされないかも知れないけど。兄弟でそう言うふうな感情って生まれるか? 普通。
 全部見て来てるんだぞ。イイとこも悪いとこも。変わってる部分も。どんな女と付き合ってきて、どんな風に別れたとか。
 あれ?
 だから、全部ひっくるめて好きになっちゃうみたいな、ブラコンを越えた直接的な感情が生まれちゃうのか? そう言う余地もあったりするのか?
 兄貴だったら、一番歳下を可愛いな~~守ってあげなきゃな~~と思ってるうちに。梓だったら、兄貴に大事にされてるうちにそれが心地好くなって、みたいな。
 気が付いたらぽ~んッと飛び越えちゃってました、とか。
 いや、いやッ!
 ダメだから! そう言うの! 絶対、おかしいし!
 あ、あれ?
 そう言えば、梓って彼女出来たこと、あったっけ? 
 中学の頃からやたらとモテてて、ラブレターもバレンタインのチョコも貰いまくってたけど。ちゃんとした彼女っていたんだっけ?
 少なくとも、今はいない。それは間違いがない。
 俺と梓は年子だから、中学までは同じ時期に同じ学校に通っていた。でも、俺の耳に梓が女の子と付き合っているって話は、噂ででも入って来たことはない。
振ったって話なら何度も、いや、何十回も聞いているが。
 それは高校でもほとんど変わらなかったんじゃなかったかな。
 面倒だからって男子校に入ったはずなんだけど、どう言うわけだか女の子ってものは「カッコいい」男の情報とやらに異常に敏い。ちょっと不気味なくらいに。
 そりゃ、男だって、可愛い女の子には眼を光らせてるところあるけどさ。あれほどじゃないと思うよ。実際。
 だって、少なくとも大群で見に行ったり、告白するのに友達連れで乗り込んだりとかしないからね。で、断ったら「ひっど~~い」って言われるんだ。
 一応、俺にも幾度か経験がある。あの「ひっど~~い」はどう解釈すればいいんだ? 女の子の告白は断っちゃいけないものなのか?
 男は言わないよ。振られたって、あんなことは。言ったって気味悪いだけだから。
 そう言う面だけ見たら、梓の「女は面倒」って考え方には賛同しないでもないけどね――ちなみに、俺はちょっと前に付き合ってた彼女と別れるときに、この「ひっど~~い」を三連発された――だからって、男に、それも兄貴に走るって言うのはどうだろう?
 で、それがOKな兄貴もどうだろう?
 いや、ひょっとしたら、始まりは逆からなのかも知れないけど。

「だって、ほんとに仕方ないじゃないか。好きになっちゃうものは。保護欲って、一歩入り込んだら恋愛感情と変わらないからね」
「だからって」

 おかしいものはおかしい、引き離さなきゃ!と捲くし立てようとして、俺は思わず口篭もった。
 俺を掠めて虚空を見ている量也兄の瞳の底に、痛いような滲みを見つけたような気がしたからだ。
 なんだ? これは?
 今にも泣き出しそうな表情じゃないか。
 なんで、また? 今、泣くような状況だったか?
 確かに量也兄は常人よりちょっと、いや、かなり涙もろいところがあるけど。
 いくらなんでも泣く状況ではないんじゃなかろうか?
 えッ? まさか?
 量也兄も、兄貴か梓かが好きってことか?
 そ、それは、ちょっとどうだろう? どうだろうよ?
 兄弟間トライアングルって、異常にも限度ってもんがあるのと違いますか? 
えッ? そうじゃないですか?

「……なんだよ。それ。支持するってことかよ」
「別に。そうとばかりは言わないけど、ね」

 珍しいくらい素っ気なく答えて、量也兄は立ち上がった。まだ飲みかけのコーヒーが入ったマグカップを片手に、キッチンに入って行く。
 カウンターキッチンの向こう側、勢いよくカップを洗う水の音だけが響いた。

「じゃ、なんなわけ?」

 俺は食らいつくように言い募った。
 量也兄は何も答えずに、ただ唇の端を僅かに引き上げただけだった。
 その表情の曖昧さに、俺は鳩尾の底が冷たくなるのを感じた。続けて、声も出なくなった。

「とりあえず、変に動いて、二人を刺激しない方がいい、って俺は思う。反対されたらムキになる。少なくとも梓はそう言うタイプだ」

 素っ気なく言い切って、量也兄は洗い終えたカップを荒い籠に伏せた。白いシャツに包まれた腕の隙間に、四人分の箸の先がひょっこりと覗いているのが見えた。
 兄弟間には異常な問題が沸き起こっているのに、箸の並びが暢気で楽しげで、なんだかわけもなく無性に腹が立った。

「医学部に進むときもそうだっただろ。自分の切り傷の血とかでも気分悪くなるんだから無理だって止めたのに、結局入っちまった。あいつはそう言うところがある」

 多分、正論なのであろう量也兄の言葉を聞いているだけでも頭まで痛くなって来て、俺はテーブルを叩きつけて立ち上がった。

「諒?」

 驚いて、量也兄がこちらを向いた。
 先刻の滲みが欠片も揺れていないのは、理性で引っ込めたからなのか。それともカウンターキッチンが薄暗くて、光に似た滲みを隠してしまっているからなのか。
 そんな些細なことにさえ、腸が煮え繰り返った。
 問題は梓から起こっていると言っても過言ではないのに、量也兄の言動が庇っているように聞こえたからかも知れない。
 どうして庇うんだ? どうしてちゃんと叱責するなり、窘めるなりしない?
 間違ってることを放っておくのか? 梓がムキになると、自分の意志をブッ千切るタイプだから? なにかしでかしそうだから?
 おかしい。絶対に、オカシイ。そんなところもオカシイ。そんな腫れ物に触るような態度。
 俺には一度もしたことがないじゃないか。
 そう。浪人したときだって、留年したときだって。
 あれ?
 俺、ヤキモチ焼いてるのか? 末っ子に? 大事にされている実感がないから?
 そんな馬鹿な? 弟や妹の世話に追われる親にかまってもらいたくて乳児退行する子供じゃあるまいし。
 確かに、物心がついた頃、お袋に言われていたのは「諒ちゃんは後でね」「お兄ちゃんなんだから、少し我慢してね」なんて言葉ばかりだったけれど。別段、ムカついたり、親の袖を引いたりはしなかった。
 あの頃、幼いには幼いなりに、俺は弟を守らなくちゃいけないと思っていたし、実際、梓は守るに値するくらい小さくて可愛かったのだ。
 動物の子供は、自衛能力がないから、無条件に周囲に守ってもらうために、可愛らしく作られるものなのだと思い知ってから振り返っても、今の小憎らしい性格を知っていても、当時のヤツは可愛かった。くどいようだけど、本当の話だ。
 ちなみに、俺は良く「女の子みたい」と評されるから――それが二十歳を越えた男に対しての誉め言葉じゃないことは、発言する相手にはわからないらしい。中学の頃、女と間違えられて、男から告白されたなどと言うトンでもエピソードまであったりする――自身も、それなりに可愛かったんじゃないかと思うのだけれど。そのへんは、自画自賛になるので、あえて言わない。

「なんかッ、気分悪いから、散歩して来るッ」

 俺はそう言い捨てて、リビングを出て行った。量也兄を振り返ったりはしなかった。

「もう、俺、出るから鍵持って出ろよ」

 そんな言葉だけがついて来た。



 俺の足は、自然と兄貴の店に向かっていた。
 駅の誇線橋を渡り、南口から北口に出る。駅前の賑やかさは雲泥の差だ。南口は住宅街を重視しているから、日々の生活に困らない類の商店街しかないのだが、北口は駅ビルやデパートもあって、昼間はわざわざ電車に乗ってまでやって来る買い物客が行き交っている上に、夜は夜で、洒落た居酒屋やカラオケがあるせいで深夜まで賑わっている。
 勇仁兄が店を持っているのは、そんな賑やかな商店街の中ほどだった。なんのことはない洋服屋さんってヤツなのだけれど、これがまた意外に繁盛している。
 まぁ、そのお陰で俺や梓は大学に行けているわけだが。
 俺は一度通り過ぎてから、また戻って、身を捻るようにして店内を覗いた。
 土曜の昼下がりだけあって、店内には十人程度の客で溢れていた。
つまり、店舗にはその程度で溢れてしまうほどの広さしかないと言うことだ。
 奥に制服姿の女の子の二人連れがいて、梓が接客をしている。すごい笑顔で。
 なんだ、こんな顔も出来るんだ。こう言う表情は昔と変わらないじゃないか。いつもこうしてたらいいのに。
 久しぶりに見た満面の笑みの向こうで、また、勇仁兄が見たこともないような笑顔で接客していて、むず痒いみたいな違和感が生じた。
 俺が知らなかっただけかも知れないけど、梓はいつからこうやって店の手伝いに来ていたのだろう。
 なんか無茶苦茶馴染んでないか?
 まるで二人の店みたいだ。
 うげッ。
 二人の、って、嫌な想像しちゃったよ。
 想像を追い払おうとして、首を振った。

「諒! 諒ッ! りょ~うッ!」

 背後からけたたましく呼びかけられて、俺は振り返った。
 落ち着きのない名前の連呼から想像した通り、まさに案の定、量也兄だった。
 なんだよ。なにしてんだよ。仕事行くんじゃなかったのかよ。

「はっずかしいからッ! そんな大声で呼ぶなッ。街中に知れ渡るから。俺の名前が」

 言いながら、量也兄の傍まで歩み寄ると、俺は思い切り胸元をどついてやった。

「あ、ごめん。ごめん」

 量也兄は本気で済まないと思っているふうでもない口調で、暢気な謝罪を口にした。

「で、なんだよ。仕事行くんじゃなかったのかよ。こんなとこでうろうろしてたら遅刻するぞ」
「もう行くよ。でも、ちょうど福引が今日までだったからやってから行こうかと思って」

 量也兄は、それが持ち味の、傍にいる誰もを安心させてしまう特有のほのぼのとした笑顔を浮かべた。
 いつもなら、この笑顔を見ると、苛々したりぴりぴりしたりしているのが馬鹿馬鹿しくなって、萎えてしまうのだけれど。今日はちょっとばかり、苛立ちの方が勝った。

「福引~~ッ? まぁた、そんなおばちゃんみたいなことで足止め食って~~ばっかじゃないのか~ぁ」
「そうぽんぽん言うなって。そう捨てたもんじゃないぞ。福引も」

 家を出たときのまま、カリカリしている俺に、少し唇を尖らせてから、量也兄は財布を引っ張り出した。
 何をしようと言うのだろうと見ていると、厚みのある白封筒を取り出して見せた。愛想もクソもない「一等」の文字がプリントされている。

「当たったッ!」

 量也兄は、弟の俺でさえここまではしないと言うような屈託のない笑みを浮かべ、封筒を突き出した。
 俺は少し身を引いて、改めて封筒の表書きを見た。このなんの飾りもない封筒に収められてちゃ、「一等」も霞むな、な~んて思いながら。

「なにが? 商店街お買い物券?」
「違う、違う」

 量也兄は思い切りぶるぶると頭を振った。

「二泊三日十和田温泉郷4名様ご招待~~ッ」
「ふ~ぅん……」

 良かったね、と聞き流しかけて、次の瞬間、

「ええ~~~ッ! マジでッ? マジで温泉ッ?」

 俺は、素っ頓狂な声で叫んでいた。   

quartetto~四兄弟狂騒曲~(4)

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 久々の家族旅行。
 最後に行ったのは、俺の記憶に寄れば、お袋がやたらと入退院を繰り返すようになる前だから、どう少なく見積もっても十年以上前のことだ。
 旅の始まる朝は、梅雨の合間とは思えないほどの快晴だった。
 寸前まで、なんだかんだと理由をつけて、梓は行かないと言い続けていたが――言い出したら、はっきり言って梃子でも動かない。無茶苦茶頑固だ。そんなのは面構えに現れてると言えばそれまでだが――結局は勇仁兄に説き伏せられて、今、東北新幹線のシートに納まっている。
 走り出す前から盛り上がって、駅弁を広げていた量也兄と俺を小馬鹿にするような冷めた視線を一度投げて寄越したきり、会話にも加わらず、車窓を流れ過ぎる風景を眺めているか、分厚い本を読み耽っているかで、その眼差しはかなり不機嫌に引き絞られていた。
 旅行のときぐらい、つまんなくても付き合えよ。っつ~か少しは笑え!
 こっちが鬱になるっつ~の!
 しかも、その仏頂面が、勇仁兄に話し掛けられたときにだけ解けるって言うのは、どう言うもんなんだろう。
 いや。
 正確に言うと――この正確に言うってヤツがかなり口惜しくて、腹立たしいのだが、梓が無愛想に小馬鹿にしているのは、どうも俺だけらしいのだ。量也兄とも結構普通に会話をしている。勇仁兄に対するときほどじゃないけど、笑顔だって浮かぶ
 それに俺が絡むと、途端に表情が失せる。
 どうよ! どうなのよ! マジで。その辺は!
 などと、猛っているうちに、新幹線は盛岡に着いた。
ここで東北本線に乗り換え、青森へ向かう。これがまた二時間半かかる。
 東京から既に二時間半かけて、ここまで来ているのに。また半分にも満たない。
 なんて日本は広いんだ。
 絶対、あの世界地図の中の日本の図って嘘だと思うよ。ほんと。
 あの尺度が正しいなら、中国やらロシアやらアメリカやらはどんだけかけて移動するんだって話よ。永遠に目的地に着けないんじゃないの。実際の話。
 東北本線に乗り換えても、久々の家族旅行は、賑やかなような、そうでないような、微妙なバランスで保たれ続けていた。
 目的地の十和田湖に着いたのは、午後二時を過ぎていた。

「腹減った~~~メシ~~ッ」

 真っ先に目に入った「十和田湖牛料理」の文字に、俺のすきっ腹が鳴り響いた。
 駅弁を食べて、おやつも散々食べたけれど、足りるわけがない。長旅はそれだけで腹が減る。

「そうだな。まず飯にしよ……」
「俺はいいよ。後で。奥入瀬渓流見ておきたいから」

 俺の意見に賛同した勇仁兄の言葉を遮るように――まさに、俺が喜びの声を上げる隙間すら与えずに――梓が、また憎らしいことを言い出した。
 はぁ?
 奥入瀬渓流が見たいだぁ?
 そんなの飯食ってからでいいだろうがッ! 集団行動を乱す発言をするなっつ~のッ!
 家族だって、一個の「社会」だぞッ! 協調性を持てッ!
 だいたい、お前がそう言う発言をすると、うちの長男は何を置いてもお前を取るんだからさ! 俺のすきっ腹は無視されちゃうわけだよ! 
 マジ、頼むから、協調性を持てッ!

「腹、減ってないのか?」
「うん。今のところは。とりあえず、俺一人で行くからいいよ。皆は食ってから、後から来れば」
「そう言うわけには行かないだろう」
「大丈夫だよ。もう子供じゃないんだし。こんなのピクニックコースだから危なくもないし」

 そう言って、梓は無上の笑顔を浮かべた。
 だ~か~ら~~~だから、だからッ!
 その笑顔がいかんっつ~のッ! うちの長男にしてみたら最終兵器だってッ!
 そんなもん繰り出された日には。

「仕方ないな。俺も一緒に行くよ」

 ほ~ら、出たよ。
 当たり前のような決り文句だよ。出ちゃったよ。
 俺は、思わずがっくりと肩を落とした。ついでに荷物も落とした。
 勇仁兄がこう言うであろうことは、言い出した梓が一番良くわかっているわけで。
 あるいは、ひょっとしたら、いや、もう確信犯的に静かな我儘を言ってみたのだと、すぐに思った。
 その証拠に、「いいよ」と言いつつ、梓はむっちゃ嬉しそうで。
 これって、本当の本格的な決定打じゃなかろうか。
 兄と弟がデキちゃってる。
 そんな天文学的確率に思い切りぶち当たっちゃってる我が家って、一体?



 でもって、結局、勇仁兄と梓が先に奥入瀬渓流に入ることになり、量也兄と俺は後から追うと言うことになった。
 奥入瀬渓流は、焼山から入り十和田湖の子ノ口に抜けるのが基本散策コースなのだが、幾つも連なる滝の途中、石ケ戸の瀬辺りで合流する予定になっている。
 が、俺としては暢気にのんびりと飯を食うつもりはなかった。適当に掻き込んで、速攻で二人を追い駆ける。
 だって、兄弟でこれ以上の泥濘だけは、勘弁して欲しいじゃないか。
 そりゃ、人目の多い観光地で、なんかしでかすとは思わないけど。二人きりにするのは、やっぱり、いや~な気分だった。
 量也兄は「放っておけ」と言うけれど。
 俺は、さすがにそこまで寛大にも、アバウトにもなれなかった。
 それでも、実際に俺たちが二人を追えたのは、一時間ほど後になった。
 気持ちは急いていたけれど、観光地の名物料理屋の混雑は甘くはなかった。当然のことながら、俺の焦燥を汲んでもくれなかった。
 紫明渓、松見の滝、三乱の流れ。
 どれも満足に眼に入らなかった。いちいち感動して、「すごいぞ。諒。ちょっと見ろよ」と言う量也兄の声が鬱陶しかった。
 観光気分じゃなかったのだ。とにかく、先に行った二人に合流するまで、マジで気が気じゃなかった。
 だから、合流地点に指定されていた石ケ戸の瀬に辿り着いたときは、心底、ほっとした。
 かつて、これ以上の安堵など味わったことがないと言い切っても過言ではないくらいに。

「えっと……」

 周囲を見回し、売店を覗く。もちろん、トイレも見る。
 が、勇仁兄も梓も姿が見えなかった。
 俺たちが予定より遅れたから、先へ行ってしまったのだろうか。
 絶対に此処で待ち合わせと決めたわけではなく、この辺りでくらいのノリだったけれど、勇仁兄の性格から言って、きちんと此処で待っていてくれるものだと思っていた。
 梓が先に行きたいと急かしたのだろうか。
 すぐにそう思ってしまってから、俺は自分が嫌になった。
 なんだか、勇仁兄と梓がアヤシイと聞いてから、総ての悪いことは梓の所為、なにもかも梓がいけないと決めきっているところがある。
 それは、一応兄である身としては、ちょっといただけないよな~~と、改めて反省してはみる。
 もちろん、長くは続かないだろう。
 梓の顔を見たら、消し飛ぶに違いない。
その程度の反省……。

「どうした?」

 少し遅れていた量也兄が現れた。
 俺みたいに急くこともなく、きちんと観光して、此処までやってきた、その表情は実に清々しかった。いっそ腹立たしいくらいに。

「いないんだけどッ」

 八つ当たりめいた口調で言うと、量也兄はまた暢気そうに微笑んだ。

「じゃ、先行ってんじゃないか?」
「だって、此処で待ち合わせっ」
「厳密に此処って決めたわけじゃないだろ。俺たちがあんまり遅いから、先に進んだんだよ」
「そうなら連絡くらい……」
「いいじゃないか。すぐ追いつくよ。諒のあのテンポで歩けばね」

 量也兄は揶揄するように言って、俺の肩をぽんっと叩いた。
 その感触に、胸に張り詰めていたいや~なドロドロした澱みたいなものが、少しだけ解けて行くのを感じた。本当に少しだけ、だけど。
 阿修羅の流れ、九十九島、飛金の流れ……。
 その後も俺は、満足に観光もせずに、清廉な奥入瀬の渓流を流し見程度に見ながら突き進んだ。
 とにかく、早く二人に追いつきたかったのだ。
 双竜の滝。
 そこに辿り着いたとき、何故か急に人気が失せたうような気がした。少し奥まった印象があるから、そう感じたのかも知れない。
 相変らず、先の二人には合流出来ず、苛立ちは頂点に達して、発火まであと少しにまで追い詰められていた。本当にまさに気分は崖ップチだった。
 これを越えたら、喚き散らす可能性さえあった。
 俺は、かなりの諦めとともに滝の周辺を見やった。いないだろうな、と思っているから一瞬判別が遅れた。
 人間って、全く不思議に出来上がっている。
 見たくないものは見えないし、聞きたくないものは聞こえない。都合の良い感覚を持っている。
 でも、今回は、見たくないものではなかった。
 ただ、いるはずがないと言う思いの方が強過ぎたのだ。だから、判別しきれなかった。
 まさか、とも思っていたし。
 だって、あり得ないだろう。
 っつ~か、あり得て欲しくないと言うか。
 普通じゃないことだから。絶対に、オカシイ場面だった。
 自分の目をとにかく疑った。疑わないと、ひきつけとか起こしちゃいそうだった。
 おい、おい、おいおいおいッ!
 待てよ!
 幾ら、ちょっと奥まってるったって、充分衆人環視の元じゃないですか? 違いますか? 
 そりゃ、新宿とか渋谷とかみたいに人が溢れてるってわけじゃないですよ。違うけどさ。
 俺は、また肩ががくりと落ちるのを感じた。もちろん、荷物だって落ちたよ。落ちた。
 こう言う目撃はしたくなかったな~~~ッ。
 いや、マジで!
 話として聞いている分には、まだ何処かで信じていなくて、ツッコミ入れて冗談にしてる余裕もあったのに。
 もう、ダメでしょ。これじゃ。
 終わってるもん。確実に。
 だ、だって………キ、キスシーンですよ! キス!
 どの角度から見ても唇重なっちゃってましたよ。あれは。
「それは眼の錯覚だよ」とか「角度の所為だよ」とか、絶対に言えないくらい、強烈なキスですよ。
 し、しかも……しかもだ! しかも!
 積極的なのは、俄然兄貴の方だった。
 少なくともそう見えた。俺には。

「諒? 兄貴たち、いた?」

 そのとき、この状況を知るはずのない量也兄の声が聞こえて来た。
 俺がおたおたする間もなく、勇仁兄と梓は、ばっと離れた。
 っつ~か、これで更に終わりでしょう。おいおいでしょ。
 別に疚しくなければ普通に続けていればイイことで――いや、良くはないけど……
 まぁ、疚しくなければの話だから。いいのか、別に――こうやって、身内の声にびくんとして離れるって言うのは完全にヤバイことになってるってわけで。
 ま、早い話、デキちゃってると、断言してもいいわけだ。
 ガクゼン。
 いや、ほんと、改めて、マジでガクゼンだよ。
 そうでしょうよ。よく考えてみなよ。
 自分の兄弟とか親とかのキスシーンとかって見たくないでしょ。普通。一番キマズイ。
 これが、いわゆる「近親相姦」のおまけがついててみな。そりゃもう、どうしていいか……混乱の極地。
 勇仁兄は、俺と、遅れて現れた量也兄に、見え透いた作り笑いを見せた。梓の方は、言わずもがなの無表情。
 奇妙な気まずさが流れ過ぎて。
 量也兄だけが、ちょっとズレ気味に、

「やあっと追い着いた。兄貴もあずも歩くの速いよ~」

 と、笑った。
 俺は、思わず量也兄に肘鉄を食らわせていた。



 以降の観光は、気まずさだけが先に立ってしまって、残りの渓流の美しさも十和田湖の静謐な眺めも網膜を掠り抜けただけだった。残りも何も、俺の場合、それより前も全然見ちゃいないんだけどさ。
 ほとんど会話もないまま、俺たちは温泉郷の旅館に入った。
 旅装を解くと、もう、すぐに夕食になった。
 はっきり言って一番楽しみにしていた食事なのに、半分以上残してしまった。
 それは、昼も食べておらず、絶対に空腹なはずの勇仁兄も梓も同じで、ちゃんと食べ切ったのは量也兄だけだった。
 うらやましいことに。



 部屋に戻っても、気まずさは続いていて、会話らしい会話はまるでなかった。
 と言うか、どう切り出したらいいんだ? こう言うとき。
「いつからデキちゃってたんだよ」とか冷かすのもおかしな話だし、友達カップルをはやし立てるようなノリも変だ。
 俺は、むっとして、テレビ画面とニラメッコ状態で、勇仁兄と梓はそれぞれそっぽを向いて、荷物を整理したり、本を読んだりしている。
 家にいるときとなんら変わらない。家族旅行の意味がない。
 と言っても、それを壊したのは、いつも家族一丸的なルールを捲くし立てる長兄自身であり、会話のない味気ない家族旅行にしちゃったのも、彼だ。
 観光地で、後から弟たちが来るとわかっていて、末弟に欲情しちゃう長男っつ~のは、いかがなものか。
 どうですか? どうなんだろうよ。
 これぞ、究極の自業自得じゃあるまいか?
 まったくさ。

「諒~~風呂行こう。風呂。温泉~」

 でもって、またもや量也兄は、緊張感のない登場をした。
 行けると思いますか。この状況で。
 放っておいたら、とんでもないことになりそうな兄と弟を残して。

「後にするよ。先行って来なよ」
「いいから。行こう」
「だから~~」

 勇仁兄と梓を監視しようと決めている俺の気持ちを知ってか知らずか、量也兄は俺の掴んで引っ張った。
 懸命に抵抗したけれど、身長にして約十センチも違うと、体力の差は如何ともし難くて、俺はまるで引き摺られるようにして座敷から連れ出された。
 呆れているのか、ほっとしているのか。
曖昧な眼差しを湛えて、勇仁兄は俺たちを見送っていた。

「な、なんなんだよ!」

 廊下にまで連れ出されてから、やっと弛んだ量也兄の腕を振り解いて、俺は喚いた。

「二人にしちゃっていいのかよッ!」
「いいんだよ」
「なんでッ」
「二人とも子供じゃない。ちゃんと自分で判断出来る。していることがどう言うことなのか」
「判断出来るなら、なんで最初ッから!」

 何処までも冷静な量也兄の態度が腹立たしくて、俺は自分でも不快になるくらいヒステリックに叫び散らしていた。
 言外に、お前は子供だからと言われているような気がしたのかも知れない。もともと冷静な方ではないけれど、特にぶっちんと切れていた。

「判断出来ても、頭ではわかってても、どうしようもないときもあるんだよ。人間には。でも、そうなっちゃったときに一番ツライのは周囲じゃなくて、自分達なんだ」
「……自分達?」
「越えちゃいけないって判ってる垣根を越えたら、奈落だって、泥沼だって、ちゃんとわかってるんだから。気持ちが冷めるのを、待っていてやるのも優しさだよ」
「量也兄……」

 ただただ暢気で、人がイイだけだと思っていた量也兄の、思いがけなく思慮深い大人の余裕を見せ付けられて、俺は完全に言葉をなくした。
 敵わないと思った。
 我が家の絶対的「法律」である勇仁兄のきっぱりとした思い切りのイイ生き方とも、あっさりと俺を抜いていった梓の変な落ち着きとも違うけれど。俺にはない泰然自若。
 ああ、敵わないよ。
 うちの兄弟は、揃いも揃って俺より全然人間が上だ。上過ぎる。
 俺が、彼らに勝てるところって、どこか一箇所でもあるのかな。元気がいいとかうるさいとか、そう言うこと以外で。
 穿り返してみたら、隅を突いたら出て来るだろうか。ほんの針の先ほどのことでも。
 どんな小さなことでも、あるならあるで、嬉しいかも知れない。
 そう。
 かなり嬉しいかも知れない。
 見つけた日から以降は、それを誇って生きていけるから。

「諒みたいにぎゃんぎゃん騒ぐばっかりじゃダメだよ。少しは兄弟を信じてやらなきゃ」

 続けてそう言うと、量也兄は、俺の頭をこんっと小突いた。

「半分ずつでも、ちゃんと血が繋がってるんだから」

quartetto~四兄弟狂騒曲~(5)

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 翌朝――。
 あんな光景を見ちゃった割にはぐっすりと眠れたのは、量也兄の泰然自若の影響が強かったからみたいだ。
 眼を覚ますと、まだ皆、眠っていた。
 俺は、しばらく天井を見上げた後で、誰も起こさないように気をつけて起き上がった。
 朝風呂に入って、更にさっぱりしようと思った。
 昨日の量也兄の言葉で、降り積もっていた鬱屈や困惑はだいぶ霧消していたけれど。もう一度、自分に言い聞かせるつもりだった。
 勇仁兄と梓のことは、少しだけ眼をつぶろう。ほんの少しの間だけ。
 その間に、きっと答えが出る。出してくれる。
 二人とも俺よりずっと頭がイイんだから。
 大丈夫だ。大丈夫。
 だって、兄弟なんだから。信じていたらいい。
 もう、ぎゃんぎゃんは言わない。
 そんなことを考えながら、俺は久しぶりの大きな風呂を満喫していた。
 昨夜も思ったけれど、やっぱり手足を心置きなく伸ばせる大きな風呂ってイイ。古い家だから家風呂は、最近のものに比べれば大きいけれど、それでも、こんなふうに自由には伸ばせない。
 少し熱いくらいの温度もいい。
 身体がほぐれる。
 と、同時に、俺の中に詰まっていたワダカマリ――特に梓への――もほぐれて、溶け出すようだった。
 俺は、ブルーのタイルに頭を預け、安堵の息とともに眼を伏せた。
次の瞬間だった。
 いきなり、思いっきり、お湯を顔にぶっかけられた。

「っ、つっ……ッ! な、なにするんだよッ!」

 俺は飛び上がった。

「なんだ。寝てるのかと思ったのに」

 感情の薄っぺらい声に、双眸を顰めると、梓が立っていた。洗面器を持って、曖昧に笑んでいる。

「ふざけんなッ! バカ梓ッ!」

 俺が声を張り上げると、

「それでも、諒くんよりはバカじゃない」

 なんて、しれっと言って、湯船に入って来た。
 梓は、一歳上の俺のことを、言葉を覚えてから一度も「お兄ちゃん」とか「兄貴」とか呼んだことはない。ずっと「諒くん」である。
 もっとも、俺たちはどう言った奇跡なのか、ただ単に両親の仲が良かっただけなのか、同じ年の一月と十二月に生まれているのだ。生まれが近過ぎて兄とは呼びにくいのだろう。
 だから、俺は別に呼び方を変えろと言ったことはない。
 その所為で、小馬鹿にされるようになっちゃったのかも知れないけど。

「なんだよ、それ。イヤミだな。そんなの、今更口に出さなくても、わかってるよ。お前と俺じゃ、脳味噌雲泥の差だってことくらい」

 俺は、むっとして、また湯船に浸かった。
 ちょっと敬遠する気持ちがまだあって、少し梓からは離れた。

「でも、人間としては、諒くんの方が全然、デキがいい」
「え?」

 思いがけない言葉だった。
 俺は梓を凝視した。
 梓は、濡れた髪を弄りながら、横目でちらりと俺を見た。
 こんな状況で思うことではないけれど、端正な顔だなと痛感させられた。目付きが少しキツイが、それさえ取りようによっては上品に見える。

「上手く笑えないし、人に優しくも出来ないし……」
「誰が?」
「俺……」

 低く呟いて、梓はざばざばと顔を洗った。

「そんなことで、デキがいいとか悪いとか言わないと思うけどなぁ。普通、世間では梓みたいに医学部ストレートをデキがいいって言うんだよ」
「……辞めたから」
「あ?」
「医学部」
「マジでッ? なんでよ。せっかく受かったのに」

 これまた思いがけない言葉を聞いて、俺は爆ぜるように梓に飛びついて行った。とてつもなくでかい水飛沫が上がって、梓は双眸を顰めた。

「俺に合わないから。わかってただろ。諒くん、一番止めてたんだし」
「それはそうだけど……でも、受かったんだよ」
「受かってみて、余計にわかった。俺には合わない。医者になって、人の命を預かる根性も勇気もない」
「じゃ、どうすんの?」
「どうするって?」

 梓が不思議そうに俺を見た。まっすぐな純粋な瞳だった。
 こんな眼をする梓を見るのは、大きな風呂に入る以上に久しぶりのことに思えた。
 そう言えば、こんなに素直な眼をしていたんだ。
 仔犬みたいになつっこくて、可愛くて。
だから、俺は一歳も違わない同じ年に生まれた弟が大好きだった。
 どんなに小馬鹿にされても、小憎らしいことを言われても本当には嫌いになれなかった。悪態をつきながらも、梓の行動や言動が気になってならなかったのは、この眼を何処かで覚えていたからだ。
 それは、多分、勇仁兄も量也兄も同じで、二人は大人で冷静な分、無理をしている梓の言動も見抜いていたに違いない。
 だから、梓も、勇仁兄と量也兄にはちゃんと素直だったのだ。
 意地を張り合っていたのは、子供な俺たちだけ。
 なんか、急に照れ臭くなって、俺は顎まで深々と湯に浸かった。

「いや……ガッコ辞めて、これからさ」
「う~~ん。とりあえず、大学入り直す。今度はちゃんと自分の好きな文学部受ける」

 梓も照れ臭そうに笑った。
 口角が少しだけ引き攣ってるように感じたけれど、確かに笑っていた。
 意地とワダカマリが一気に溶けて消えていく。

「文学部か~~~いいかもね。梓、本好きだし。うん。その方がいいよ。無理してない感じで」
「だよね」

 梓は肩を竦めた。
 懐かしい仕草だった。
 子供の頃、悪戯を見つけられたり、困ったりすると、梓はこうやって肩を竦める仕草で誤魔化した。それで皆に許されていた。邪気のない子供だった。

「……それからさ、勘違いさせたと思うけど、兄貴とは何もないからね」
「えッ、だって……あの滝のとこで」
「あれは、眼にゴミが入ったの。で、兄貴に取ってもらっただけだよ。なんか、諒くん、キスシーンだと思ってるみたいだから、気まずくなっちゃって……」
「な、なんだよ~~~だったら、そう言えよ~~~最初に~~…でも、ホテルから出て来たって量也兄が、言ってたぞッ」

 納得しかけて――でも、まだ例のホテル目撃談が片付いていないからと、自分を奮い立たせて、俺はばちゃんと湯を叩いた。

「ホテル?」

 反芻して、梓は宙を見上げた。
 もわもわと立ち昇る湯気を見定めるような顔をしてから、はっとしたように頷いた。含み笑いまでつけて。

「なんだよ。誤魔化されないからなッ。ホテルから出て来たのはほんとなんだろッ」
「ほんとだよ」

 梓はまだ笑っている。
 俺は、ちょっとむかついて、梓に思い切り湯をかけてやった。それも何度もだ。
 梓は身体を逃がしながら、なおも笑っていた。

「梓ッ」
「ああ、ごめん。ごめんッ」

 降参とばかりに両手を上げて、梓は湯船の縁にずり上がった。ちょこりと座って、ずぶ濡れの髪をかきあげる。

「あれね。別に部屋を使ってたわけじゃないよ。ラウンジ」
「へッ?」
「大学辞めたって報告してたんだよ。いきなり、皆の前で言うより、まずは兄貴に言うべきだと思ってさ。保護者なんだし」
「なんだよ~~~もぉ~~~」

 俺は拍子抜けして、頭を湯船の縁に預けた。

「でも、量也兄にも言ってあるんだけどな。量也兄もお客さんと来てたから、ラウンジでばったり会ったし」
「え、ええッッ!」

 俺は素っ頓狂な奇声を発して、頭を起こした。
 知ってただと~~~? 
 知ってて、あんな言い方したのかよ~~~ッ。俺をおちょくったってことだな~~。馬鹿量也ッ!
 覚えてろよ~~~ッ!
 そりゃ、余裕綽々、泰然自若だよ。
 だって、ほんとのこと知ってんだから。あんな暢気にもしてられるさ~~。
 リベンジしてやるからなッ!
 そのとき――浴場の扉が開いた。

「解決したか~~~?」

 そ~~んな暢気なことを言いながら、入って来たのは勇仁兄と量也兄だった。
 二人ともにやにやといや~な笑みを湛えていた。
 俺は一気に頭に血が上って、

「五百万回ぐらい死にやがれッ! 馬鹿兄貴どもッ!」

 と、叫んでしまった。
 だだっ広い大浴場に、俺の叫びだけがわんわんとこだました。



 馬鹿兄貴どもに、長々とらしくもない説教をした所為で、俺たち兄弟は湯当たりを起こし、その日大半を棒に振った。
 予定していた観光は八割出来なくなった。
 美味しいご飯も、二日目の夕食と最後の朝食だけしか食べられなかった。
 それでも、今回以上に、楽しくて有意義な家族旅行は初めてだったように思う。
 こんな馬鹿兄貴二人と、兄を追い越す遠慮なしの弟でも――ああ、でも、梓はまた受験し直すんだから、ちゃんと順列通りに戻るんだ――俺にとっては本当に大切なかけがえのない兄弟だと、改めてわかったから。
 なんだか、早く家に帰って、仏壇の両親に手を合わせたい気分だった。
 口に出しては、面映くて言えないけど、せめて、腹の中で伝えておこうと思う。「この家に生んでくれてありがとう」って。



 帰りの東北本線の車内で、さんざんじゃれ合ってふざけ合った梓が疲れて眠ってしまうと、俺は、向き合いのシートに座って雑誌を捲る量也兄の膝を叩いた。勇仁兄もぐっすりと眠っていた。

「ん?」

 驚いたように、量也兄が顔を上げた。

「当ててくれてありがと」
「なんの」

 俺の言葉に、量也兄は嬉しそうに微笑んだ。心の底まで和ませる優しい表情だった。

「今度は、ハワイ旅行当てて」
「調子に乗るな」

 俺はへへっと笑って、車窓に視線を走らせた。
 見慣れない――東京ではまず見られない。だからこそ素直になれたのだろうけれど――緑が大半を占める風景が、柔らかく流れ過ぎた。
 また明日から、講義がない日に早く叩き起こされても、素直に起きてやろうと思った。
 せめて、一ヶ月くらいは。

BAD-Capsule

 ふしゅっと蒸気の音がする。噴き上がる黒と白の煙が交ざり合い、いつの頃からか青い空は見えなくなった。食堂の前に植えた花々たちもしょげている。水をやりながら彼は全身から絞り出すような溜め息をひとつ。

「花にも動物にも人間にも青い空や綺麗な空気は必要なのに」

 それを諦めてまで、求める明日ってなんだろう。ひとは自分で掴むために二本の腕があり、二本の足があるのに。機械がそんなに必要なのだろうか。
 俯きかけた赤い花をそうっと撫でて、彼はもうひとつ溜め息をつく。
 ごほっ。
 ごほっごほっ。
 乾いた咳がはじまった。
 機械と蒸気がかえって人びとの未来を奪っている。みんな気づいているのに、なぜ見ない振りをしようとするのだろう。
 彼はベストのポケットから青いカプセルをふた粒取り出す。ぎゅうっと握り締めて、その硬くて柔らかい感触にぞくっとする。こんなもので命を繋ぐ我が身が情けない。

「おはよう」

 いっそカプセルを握り潰してやろうかと考えていたら、背後から擦れたような低く重たい声がした。
 彼は、咳を堪えながら、わざとらしく溜め息をついてみせた。背後の男がくくっと笑った。

「おはようと言ったのに、お返しはそれか」
「毎日様子を見に来なくていい」

 彼は吐き捨てるように言い放つと、食堂のドアノブをひっつかんだ。男に一瞥すらくれず、引き開ける。ずずっと錆びついた音がした。
 ――まるで、俺の断絶魔みたいじゃないか。
 彼はカプセルをわざと手のひらから落として、つま先で蹴り上げた。ごほっと一際大きな咳が出た。咽喉の奥、肺の入口あたりが重たく軋む。疼痛が奔る。
 たぶん、いちばん人間らしい部分だからこそ痛むのだ。

「おいおい」

 男は呆れたように呟いて、カプセルを拾い上げる。節の目立つ大きな手のひらが彼の眼路を過った。

「そんなに死にたいのか。愚か者が」

 男は彼の腕をぐっと掴み、カプセルを握り込ませた。あっさりと彼のテリトリーに侵略してきたのだ。

「誰もが望むものを持っているのに、自ら捨てるな」

 男は かっと熱く尖ったものが眼球の裏側にぶつかった。思考は滾る。苛立ちとヒステリックな叫びが弾け飛んだ。

「誰がそうしてくれと望んだっ!」
「それでは死にたかったのか」
「そのほうがずっとマシだったなっ!」

 彼はカプセルを男に向かって投げつけた。
 真黒なスーツに漆黒のフロックコート。ひょろりと背が高いから、まるで誰かの影のようだ。煙の向こう側に閉ざされてしまった空みたいに、青く澄んだ瞳がじっと彼を見つめている。
 彼はぐっと睨みつけた。

「ひとは、そう遠くないうちに機械によって救われていくのだ。おまえはその最初の一歩ではないか。胸を張れ。堂々と見せびらかして生きればいい」
「……俺は人間じゃないだろうっ、もうっ!」
「人間じゃない? ちゃんと肌も髪も手足もある。言葉も喋れる。心臓だって動く。どこからどう見ても人間にしか見えない」

 男は薄い唇をすううっと引き上げた。蛇の顔によく似ている。病院ではじめて会ったときと印象はなにも変わらない。その気持ちに従って、あのとき首を横に振ればよかった。

「それでも人間じゃない! 工場の底にある蒸気と同じだっ!」

 彼は足元に転がって来たカプセルを力任せに踏みつけた。ぷちゅっと熟しきった果実がつぶれるような音がした。

「あんたらみたいな科学だ医療だ技術の進歩だってほざく奴らが機械なんてものを作って、ひとから仕事を奪い、工場の蒸気で空を奪って、人間の生命さえ弄んで奪っていくんだっ」
「結果、病気が恐ろしくなくなる。どこがいけない? 大切なひとを失って嘆くこともなくなるんだぞ」
「それは……っ」

 男の言葉に返すべき怒りがうまく形にならなくて、彼は俯いた。

「恐れることはない。自分を恥じることもない。そのうち、ひとはみな、おまえと同じように変わっていく。そうやって救われるのだ。心も身体もなにもかもすべて」

 男は穏やかに言い切ると、彼の頭をふわりと撫でた。

「わたしは、おまえを病気に奪われたくはなかった。嘆き暮らすのはいやだった。病床の我が子を助けたいのはどんな親も同じだ。そうしてやれる技術をもつのなら駆使する」

 男は小さく溜め息をつく。

「それが……父親というものだ」

 


                  END

我、我のために死せり

「俺は天皇陛下万歳なんて言わない」

 彼は呻くように呟いて背を向けた。
 かっちりした仕立ての黒い海軍軍服の下で、逞しい肩幅が窮屈そうに上下した。

「水野…?」

 俺は小さく問い返して、彼を覗き込もうとした。
 彼はさらりを顔を逃がした。

「軍人として恥でもなんでもいい。俺は天皇陛下のためなんぞ死なない」
「お前、なに馬鹿なこと…」
「馬鹿なこと? それはどちらだ? 他の国を侵していい正論などあるか? 国民の犠牲の上に成り立つ大義など正しいのか?」

 彼は憑かれたように一気に捲くし立てた。
 言ってはいけないことだ。口に出すこと自体が咎められる。
 例え、思っていても、言葉にした時点で「非国民」と詰られる。
 尉官以上の階級を掲げた将校であっても。

「どうしたんだ、いったい?」
「どうもしていない。最後に来て、すべてがはっきり見えるだけだ。まやかしの大義のためには死なん」

 中尉の階級章を載せた肩が軋んだ。
 端正な横顔が青褪めて震えているように見えるのは、奥歯を強く噛み締めているからだろうか。
 なにを抱え、なにを堪え、なにを苦しんでいるのか。
 最後と繰り返す眼差しがいつになく遠い。
 海軍兵学校で出遭ってから6年――――毅然と常に前方を見据えている美貌には強烈な磁場があった。悠々と首席を通す優等生振りの裏で、適度の悪さもする。妙なカリスマを持った男だった。
 俺は、誰もが羨望の眼差しで見つめる同期生の彼に――――水野誠に焦がれた。どうしようもなく惹かれた。戻り道を見失うほどに。
 彼はいつでも俺より前にいた。弱みを見せることなどなかった。
 いまだって、隊内では相変わらず毅然としているのだろう。
 弱音らしきものを吐けるのは、俺が肺を患い、この戦況下にありながら退役を余儀なくされられた存在だからだ。
 誰にも、この刹那の弱音が知られないからだ。

「……らしくないな」
「らしい? らしい俺とはなんだ?」
「それは……」

 俺は口ごもって俯いた。
 刹那、視界が鈍く翳った。
 驚く間もなく、ぬくもりを旋毛のあたりに覚えた。
 退役後、刈り揃えることをしなくって、髪はだらしなく伸び切っている。
 端然と整えた彼に触れられるのは恥ずかしい。
 俺は逃げるように身体に力を込めた。が、逃れられなかった。
 彼はまるで力を加えていなかったけれど、俺の中のなにかが彼と離れたがらない。
 たぶん、そう言うことだ。

「俺たちを守ってくれない国のために、何故死ねる?」
「水野……?」
「なんと言われてもいい。俺は国やら天皇やらのためには死なない。誰かやなにかを守るために死ぬなんて綺麗ごともまっぴらだ」

 そこまで言い切って、彼は大きく息を吐いた。
 灼熱めいた吐息が髪を揺らすのがわかる。

「俺は俺のために、俺が生まれて生きて来た証のために死ぬ」
「……特攻は、本当なんだな」
「……………」

 饒舌だった彼が、問いかけには答えなかった。
 刹那、弾けた鼓動だけが遠巻きに答えを伝えて来た。

「もう戦争は終わる。もう日本は持ちこたえられない」
「わかってて、特攻なんか志願したのか」

 答えを得られないとわかっていたから、俺はせめて身を起こして彼の顔を見定めてやろうと思った。
 感情の薄い彼の双眸の底の真実を読み取る自信はないが、ひょっとしたらいまなら見えるかも知れない。
 だが、今度はがっちりと彼の腕に押さえ込まれた。
 退役して三年の軍人と現役軍人の力の差は歴然としている。払い除けられるはずがない。

「桜を見ずに行くのが心残りだ」
「だったら…」
「行くなとか女々しいことを言うなよ。俺は俺の命の後始末をつけに行く。行かなきゃならん」

 彼の声が僅かに震えた。
 言葉と裏腹に本当は迷っている。
 呼吸が痛いほど苦しくなった。

「今年の桜だけは、俺の墓に供えてくれ」
「来年も再来年も、俺が生きている限り、お前に桜を届けに行く」

 俺の言葉を聞いて、彼は低く自嘲気味に笑った。

「今年だけでいい」
「水野?」
「年内で日本は負ける。そして生まれ変わる。敗残の将に生まれ変わった国の桜は似合わない」

 彼はそう言い切ると、俺の身体を離した。
 すぐに軍帽を深く被り、くるりと背を向けた。

「水野……?」
「お前はお前のためだけに生きろ。利己主義だと詰られても。お前の命はお前だけのものだ」

 彼はきっぱりと言い切ると、いつものように毅然と前を向いて歩き出した。
 軍靴の音が静かに耳に残った。

 俺は彼を追わなかった。
 いや――――追えなかった。

 

 水野誠が乗船した戦艦大和は、昭和20年4月6日に出撃したが、翌7日に米艦載機386機による波状攻撃を受け、午後2時23分、九州坊ノ岬沖90海里の地点で2498名の乗組員と共に海底深く沈没した。
 その4ヵ月後、日本は無条件降伏を受け入れ、数多の命を翻弄した第二次世界大戦は終わりを告げるのである。

 

 

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 

                    (日本国憲法前文より)