花ざかりの森。

物書き・伊織花純(硴水巴菜)の情報や小説置き場です。

quartetto~四兄弟狂騒曲~(1)

 

*結構前に書いた2万文字くらいの中編寄りの短編です。 

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「ちょっと、いいか?」


 ナイターを観ていた俺、深水諒の背後で、遠慮がちな声がした。
 俺がナイターを観ているときは――それも、巨人が負けているときは特に――声を掛けてはいけないと言うのは、我が家の数多い不文律の中に含まれているはずだ。
 それなのに、この内海が打ち込まれている七回表の状況で、声を掛けるとは、自殺行為に近い。
 そう思いながら、振り返ると、申し訳なさそうに次兄の量也が佇んでいた。手にはコンビニの袋をぶらさげている。

「なんだよ。今、野球観てるんだけど」

 俺は、長兄・勇仁に対してなら絶対に吐けないであろう悪態口調で答えた。この次兄には、大抵の言動が許される。
 人がいいと言うか、お人よしと言うか、優しいと言うか、全部と言うか。
 とにかく、次兄は扱いやすい。多少、ゾンザイにしても問題がないからだ。

「わかってる」
「わかってんなら、後にしてよ。今、巨人ヤバイんだから」
「それもわかってる。わかってるけど、緊急事態なんだ」
「緊急事態?」

 俺が興味を持ったと思ったのか、量也兄はずかずかと入り込んで来て、すとんと俺の隣に座った。
 もっとも、ここは皆が自由に使える居間なのだから、入るのは自由だ。逆に言えば誰にも占領資格はない。
 その距離があまりに近くて、俺は少し身体の位置をずらした。

「ずれないで」

 すかさず、腕を掴まれて、引き戻された。

「……なんでだよ」
「大きな声では話せない」
「はぁ?」

 俺は少々、訝しげに量也兄を見やった。
 量也兄は、かつてないほど深刻そうに眉根を寄せていた。

「大きな声で話せないったって、今、家には俺らしかいないよ。兄貴と梓、出かけてるもん」
「そ、その兄貴とあずの話なんだよ」

 量也兄は、俺の言葉を受けて、急に興奮したような口調になった。酒を飲んだときのように呂律もあやしい。

「二人、一緒に出かけた?」
「わけないだろ。兄貴は仕事。梓はガッコ帰って来てから、図書館」
「でも、一緒にいた」
「誰が?」
「兄貴とあず……」

 そう答えると、落ち込んだように、量也兄はテーブルにコンビニの袋を乗せた。
 俺は、袋の中を覗いて、豆大福を引っ張り出した。何も言ってはいないが、この雰囲気からしてこれは俺に買って来てくれたものだ。

「これ、もらうよ」
「うん……どうぞ……」
「いてもいいじゃん。別に。どっかで偶然会ったんじゃないの。なんで、落ち込んでんの?」

 俺は豆大福のパッケージを剥ぎながら、視線をテレビに戻した。
 無死満塁のピンチは相変らず続いていて、マウンド上の内海の元に捕手が歩み寄るところだった。

「……ホテルから出て来た」
「あ?」

 量也兄の言い出した言葉の意味を図りかねて、俺は間の抜けた返事を返した。視線はナイターの画面に据えたまま。

「だから、ホテルから出て来た」
「ホテル? 誰が?」
「何度も言わすな。兄貴とあずだ」

 思わず、俺はぎくしゃくと顔を振り向けた。

「まさかぁ」

 量也兄はなんとも答えずに、ただ厳しく顔を歪めた。

「誰かと間違えたんじゃないの?」
「間違えてない。今日の兄貴は白地に紺のストライプのシャツだったろ。で、あずは白いTシャツ」
「そんな恰好珍しくないだろ」
「でも、兄貴たちだったッ!」

 量也兄が珍しく、大きな声を上げた。
 そのときだった。
 玄関の引き戸が開く轢音が響き、

「ただいま~~ッ」
「ただいま」

 長兄の勇仁と末弟の梓の声がした。
 俺の手から豆大福がぽろりと落ちた。