quartetto~四兄弟狂騒曲~(2)
東京に入梅宣言が出されて一週間。
もちろん、そんな季節でも我が家の朝は変わらない。
午前六時半になると、隣の部屋で目覚ましが鳴り響き、無視しきれずに目覚めてしまった我が身を呪いながら、咽喉の奥で「五月蝿い」と繰り返す。
隣室の弟が、そのキャラクター通りに端然と階段を降りて行く足音に舌打ちして、二度寝の体勢に入る。
が、その柔らかで心地好い感触も、十分と経たないうちに起こしに現れる二人の兄のうちのどちらかに、あっさりと壊される。
それが、我が家の朝。
一年三百六十五日、まるで変わらない。
そう、まるで変わらないのだ。
土日だろうが、春休みだろうが、夏休みだろうが、冬休みだろうが。もちろん、ゴールデンウィークも言わずもがなだ。
世間がのほほんと過ごしている休日でも、我が家だけはウィークディ状態。
寝坊も怠惰も許されない。
両親がいないから、いい加減だと思われては困ると言う長兄・勇仁の考え方なのだが。巻き込まれるこっちはたまったものではない。
テレビや雑誌で見かけるような「だらけた生活」とやらをたまにはしてみたいと思ったとしても、バチは当たらないはずだ。
でも、そんな口答えが出来るはずがない。
だって、我が家では勇仁兄が法律なのだ。
ましてや、三流大学に入るのにさえ一浪した上に、いきなり進級単位を三つも落とし、留年までしてみせた兄弟一の劣等生だ。反論の余地などない。
これが、ストレートで国立の医学部に合格した、絵に描いたようなエリートの末っ子の梓なら、多少は抗うことも出来るのだろうけれど。
梓には、とにかく勇仁兄が甘くて、ときどき不快に思ってさえいた。
その理由は、つい最近、おぼろげながら輪郭が見えて来た。
認めたくない形で。
「起きろ! 時間だぞ!」
今朝、起こしに来たのは勇仁兄だった。
彼は、一見穏やかで優しい顔をしていて、融通の利きそうな柔和な印象があるが、実は、一番難しい。
誰もが、優しくてイイお兄さんだと言う。基本的にはそうなのだが、同時に俺が「苦手」なのも長兄なのだ。こっちの要求が通りにくい。甘えが許されない。穏やかな口調のスパルタと思ってもらえたら間違いがない。
これが次兄の量也兄ならば、優しくてイイお兄さんのまんま、読んで字のごとくと言うやつで、俺のワガママが通り放題になるのだ。
その量也兄の、例の目撃談以来、俺はますます勇仁兄に対する気まずさを増加させている。
食事の席がちょうど正面になるのだが、それさえ気まずくて、勇仁兄が普通以上に普通なのが更に染みて、顔が上げていられなかった。
「時間って……今日、土曜。ガッコ、講義ないんだけど」
俺が殊更逃げ込むように蒲団に潜り込みながら、そう言うと、勇仁兄は、
「講義なくてもカンケーないっていつも言ってるだろ。土日だからって怠けたら、戻すのに五日かかるんだ。それで一週間潰れるんだぞ」
と、いつも通りの口振りで、持論を振り回した。
それが正しいとか間違っているとか、そう言う次元の話はもう超越していて、我が家では「こう!」なのである。逆らったって跳ね返される。
我が家では、電気の点けっ放しより、お風呂の水を洗濯に使わずに排水しちゃうより無駄なことだった。
だって、長兄が法律なのだから。
え。
ってことは、勇仁兄が梓と、そう言う関係――どう言う関係かは改めて口にしたくもない――に陥ったとしても、まかり通ってしまうってことなんじゃ?
そりゃまぁ、俺たちは、半分だけしか血が繋がっていなかったり、連れ子だったりと、普通の兄弟とはだいぶ違う。
ちなみに、勇仁兄と量也兄がそれぞれの連れ子で、俺と末の梓が両親の間に生まれている。つまり、上二人と下二人は半分ずつ同じ血を持つ兄弟と言うやつだ。
「もう皆起きてるぞ。さっと起きて、さっと飯を食え。で、今日は天気がいいんだから蒲団を干せ。あと、その辺に丸めて脱ぎ捨ててるシャツとか靴下とか洗濯機に入れろ」
「そんなにぽんぽん言うなよ。まだ頭働いてないのに」
「意味もなく深夜までテレビ見たり、ゲームしたりしてるからだろ。だから、朝すっきり起きられないんだよ」
「うえぇ~~~ぇ。もういいよ~~。寝起きに説教なんか」
黙っていたらと、言うより、このまま蒲団に潜っていたら、朝七時そこそこから説教で埋められそうな気がして、俺は勢いをつけて起き上がった。
心地好い蒲団から抜け出すのは、はっきり言って、かなり勇気がいる。この世で一番安心できて、幸せなのは蒲団の中だ。
少なくとも、俺はそう信じている。
もっとも、そんなことを欠片でも口に出したら、頑固な勇仁兄の説教に拍車がかかるに違いないから、口には出さない。
なにしろ、彼に言わせると、蒲団の中がこの世で一番好きなんて人間は怠け者らしい。
「起きたな。ちゃんと着替えて降りて来いよ」
勇仁兄は、俺に人差し指を突きつけてから、くるりと踵を返した。
「はい、はい」
俺は唇を尖らせて、ちょっとばかり適当に答えた。
「返事は一度!」
すかざず、そう切り返されて、俺は心底から面倒臭いと思った。
何から何まで世話になっているしっかり者の長兄は、頼りになるけれど、同時に鬱陶しくもあった。重箱の隅を突かれるからだ。そんなのどうでもいいじゃん、と思うようなことでも、この長兄にかかると大きな家族間の「議題」になってしまう。
もっとも、量也兄が目撃した梓とのことをが~~ッとぶちまけたら、俺と勇仁兄の立場は瞬時にして反転して、彼ら二人のしたことの方が、でかい「議題」になるに違いない。
でも、こんなつまらない状況で切り札を出しても仕方がないし、まだ確証が少な過ぎる。一度の目撃では「絶対」とは言い切れないのだ。
「……はいッ、わかりましたッ」
俺が開き直って答えると、ちょうど階段を上がって来る誰かの足音が聞こえた。
乱れた髪を掻き毟りながら、開け放たれた襖――亡き両親が残した古い建売住宅は一方的に日本間が多い。貴重なフローリング敷きの洋間は、梓が医学部に合格した途端、彼への優遇処置が生まれ、当然のごとく彼の部屋になった――の向こうに、階段を昇り切った、梓の姿が見えた。
どきりとした。
ベージュの薄手のサマーセーターにジーンズ姿。早朝から眠気の欠片もないさっぱりした顔をして、その上、何処となく冷めた双眸で、まだ寝惚けている俺を嘲笑うように見た。
いつも通りに。
そう。いつも通りだ。
この年子の弟は、身長も態度も口調も、悔しいことに脳味噌もあっさりと追い抜いてしまった。まぁ、医学部ストレートの脳味噌なんだから、端から敵うわけはないのだが。
以来、すっかり、俺を小馬鹿にしている。
子供の頃は、べたべたと纏わりついてきて、何処に行くのでも俺にくっついて来ていたくせに。
はっきり言って、かなり可愛かった。
当時は、標準より明らかに小さくて細くて、良く笑って良く泣く表情の豊かな子供だった。顔立ちは整っていたから相当に目立ったし、連れて歩く俺の方も自慢だった。
だからってその頃が懐かしいわけでも、戻りたいわけでもないけれど、ここまで急変しなくてもいいんじゃないか、くらいは思う。なんか、すごいレベルの高い手の込んだ詐欺に合った気分だ。
どうして、こんなに変わることが出来るのか。
変わらずに生きていると自負している俺からすると、弟の変貌は無気味でさえあった。
挙句、長兄とデキちゃったてんだから、全くお見事な優等生詐欺師だ。
今に見てろよ。
証拠掴んで、ぎゃふんと言わせてやるからな。
って、実際に「ぎゃふん」と言うヤツを見たことはないけどさ。
なんにしても、いつまでも、そんな取り澄ました顔でいられると思うなよ~~っ!
な~んて思っている俺を置き去りに、勇仁兄は階段を昇り切った位置で立ち止まっている梓に近づいて行った。
「もう、飯済んだのか?」
そんな普通の話なのに、勇仁兄は何故か梓に耳打ちをするような体勢を作った。
梓は首を傾げて、ふんわりと笑った。何処となく甘えて、媚びているような。
俺には、少なくとも、中学校に上がったくらいから俺に対しては、こんな表情を見せたことはない。
もっとも、上の兄たちには、常にいい子でい続けているらしく、二人の口からは梓を誉める言葉しか出てこない。
そりゃ、医学部に進んだ上に、奨学生扱いで授業料免除の弟が自慢でないはずがないから、それは仕方がない。更に四兄弟の末っ子となれば余計だろう。
でも、ちょっと過保護にし過ぎじゃないかと、最近は思うようになってもいた。
僻みじゃない。
僻みなんか抱いたりはしないけれど、挫折も苦労も知らなければ、怒られたこともない優等生は踏み外したときが怖い。軌道修正のコツを知らないから、簡単に奈落を見てしまうのだ。
そして、二度と立ち直れない。
そんな風に育てちゃっていいのかよ、と思う。
自慢じゃないが、俺は軌道修正なら大得意だ。浪人生活のときも、さすがに二浪はやばいと思ったから狙いを定めていた学部以外も片っ端から受けまくった。お陰で見事に合格はしたものの、希望学部以外だったものだから、単位取得に四苦八苦している。痛し痒しってところだ。
こんなところから見ても、たぶん、俺は兄たちの――特に二十歳前に自分の店を持ってしまったようなやり手の勇仁兄には――望むようには育たなかったのに違いない。
だから、自然に彼らの意識は優秀な末弟へ向かった。
「午後空いてるか?」
「空いてるよ」
「じゃ、また店手伝いに来てくれ。いつも悪いけど。飯奢るから」
今度は勇仁兄が媚びるように言った。
梓は無邪気に笑い返すことで承諾して見せた。
なんなんだ。これは。
ちょっと待てよ。
一見普通の会話だけど、なんかいちゃついてる感じじゃないか? まるで付き合い始めの恋人同士じゃないか?
マジで、マジで、ちょっと待てって。
「いいよ。気使わなくても。飯食ってから行くから」
「だって、バイト代出ないんだぞ」
「いらないって。そんなのは」
梓は驚くほど眩く微笑んだ。こんな風に微笑んでいると、俺に向ける嘲るような態度など嘘みたいに思える。
裏表あり過ぎじゃないか。こいつ。いくらなんでも。
なんで、こんな人間になっちゃったんだ。全く。
可愛かったじゃないか。あんなに可愛い弟だったじゃないか。遠い昔の話だけど。十年くらい前の話だけど。
俺は、ものすごいジレンマと苛立ちに襲われた。
「バイト代なくても困んないから」
「ならいいけどな」
「何時くらいに行けばいい?」
「いつもと一緒でいいよ。一時過ぎくらいで」
そう言って、勇仁兄は、梓の項、それも髪の生え際の辺りをきゅうっと掴んだ。
梓は、まるで飼い主に撫でられた仔犬のように心地好さそうに身を捩った。
うげっ! なんだ! なんなんだよ! それ!
おかしいだろ! その触れ方はッ! 応え方はッ!
普通の兄弟の雰囲気か! それがッ!
おかしいから! マジに普通におかしいから! お前ら。
俺は、腹の底で幾度も繰り返し二人にツッコミを入れ続けていた。