quartetto~四兄弟狂騒曲~(3)
「やっぱ、おかしいわ。あの二人」
夜の仕事をする量也兄と粗末な昼食を済ませ、インスタントのコーヒーを飲みながら、俺は切り出した。
口うるさい長兄も、人を小馬鹿にしたような末弟もいなくて、本当ならバラエティの再放送でも見ながら、のほほ~んと過ぎていくはずの午後。
俺はのほほんどころではなかった。
今朝、見てしまった光景と、量也兄の目撃談が脳裡で駆け巡り、拡大膨張していく。
「だろ?」
量也兄は無造作に答えて、コーヒーを啜った。
もうちょっと話にノッテ来ると思ったから――だって気にしてもいなかったネタに火をつけたのは彼の方なのだから――俺は少し拍子抜けして、量也兄を見据えた。
「なんだよ。もっと話広げろよ。この話を持ち出したのはそっちだぞ。聞かなきゃ気にならなかったのに!」
「広げてどうすんだよ。本当にそうなっちゃってんなら仕方ないじゃないか」
「仕方ないとか言うなよッ。兄弟だぞッ」
俺はばんっとテーブルを叩きつけた。
そうなっても仕方がない? 兄弟なのに?
そりゃ半分しか血は繋がってないけどさ。兄弟だぞ。きょうだい!
戸籍上でもちゃんとそうなっている。
兄弟でそれが許されるのなら、世の中にタブーなんかないじゃないか。好き放題だ。無法地帯だ。
「親父やお袋に顔向けが出来ないッ」
俺は更にテーブルを拳で叩き続けた。
マグカップがかたかたと鳴って、テーブルやら新聞やらテレビのリモコンやら、俺の手の甲やらに飛び散った。
「諒。お前、結構古いこと言うね」
暢気な口調の裏に、何処となく呆れた色彩を宿して、量也兄が呟いた。
「はぁ? 古い? 古いとか新しいとかって問題じゃないと思いますけど~~~?」
量也兄の言葉が理解出来なくて、俺はいつになく険のある言い回しになった。語尾が自分でも哀しくなるくらい尖って響いた。
なんだか切なくなった。
こんな言い争いなんて。
兄と弟がデキちゃって、その話をもう一組の兄と弟がしている。不思議で歪んだ構図。普通の兄弟なら、絶対にあり得ない。
だって、オカシイだろ。おかし過ぎるだろッ。
別に逮捕はされないかも知れないけど。兄弟でそう言うふうな感情って生まれるか? 普通。
全部見て来てるんだぞ。イイとこも悪いとこも。変わってる部分も。どんな女と付き合ってきて、どんな風に別れたとか。
あれ?
だから、全部ひっくるめて好きになっちゃうみたいな、ブラコンを越えた直接的な感情が生まれちゃうのか? そう言う余地もあったりするのか?
兄貴だったら、一番歳下を可愛いな~~守ってあげなきゃな~~と思ってるうちに。梓だったら、兄貴に大事にされてるうちにそれが心地好くなって、みたいな。
気が付いたらぽ~んッと飛び越えちゃってました、とか。
いや、いやッ!
ダメだから! そう言うの! 絶対、おかしいし!
あ、あれ?
そう言えば、梓って彼女出来たこと、あったっけ?
中学の頃からやたらとモテてて、ラブレターもバレンタインのチョコも貰いまくってたけど。ちゃんとした彼女っていたんだっけ?
少なくとも、今はいない。それは間違いがない。
俺と梓は年子だから、中学までは同じ時期に同じ学校に通っていた。でも、俺の耳に梓が女の子と付き合っているって話は、噂ででも入って来たことはない。
振ったって話なら何度も、いや、何十回も聞いているが。
それは高校でもほとんど変わらなかったんじゃなかったかな。
面倒だからって男子校に入ったはずなんだけど、どう言うわけだか女の子ってものは「カッコいい」男の情報とやらに異常に敏い。ちょっと不気味なくらいに。
そりゃ、男だって、可愛い女の子には眼を光らせてるところあるけどさ。あれほどじゃないと思うよ。実際。
だって、少なくとも大群で見に行ったり、告白するのに友達連れで乗り込んだりとかしないからね。で、断ったら「ひっど~~い」って言われるんだ。
一応、俺にも幾度か経験がある。あの「ひっど~~い」はどう解釈すればいいんだ? 女の子の告白は断っちゃいけないものなのか?
男は言わないよ。振られたって、あんなことは。言ったって気味悪いだけだから。
そう言う面だけ見たら、梓の「女は面倒」って考え方には賛同しないでもないけどね――ちなみに、俺はちょっと前に付き合ってた彼女と別れるときに、この「ひっど~~い」を三連発された――だからって、男に、それも兄貴に走るって言うのはどうだろう?
で、それがOKな兄貴もどうだろう?
いや、ひょっとしたら、始まりは逆からなのかも知れないけど。
「だって、ほんとに仕方ないじゃないか。好きになっちゃうものは。保護欲って、一歩入り込んだら恋愛感情と変わらないからね」
「だからって」
おかしいものはおかしい、引き離さなきゃ!と捲くし立てようとして、俺は思わず口篭もった。
俺を掠めて虚空を見ている量也兄の瞳の底に、痛いような滲みを見つけたような気がしたからだ。
なんだ? これは?
今にも泣き出しそうな表情じゃないか。
なんで、また? 今、泣くような状況だったか?
確かに量也兄は常人よりちょっと、いや、かなり涙もろいところがあるけど。
いくらなんでも泣く状況ではないんじゃなかろうか?
えッ? まさか?
量也兄も、兄貴か梓かが好きってことか?
そ、それは、ちょっとどうだろう? どうだろうよ?
兄弟間トライアングルって、異常にも限度ってもんがあるのと違いますか?
えッ? そうじゃないですか?
「……なんだよ。それ。支持するってことかよ」
「別に。そうとばかりは言わないけど、ね」
珍しいくらい素っ気なく答えて、量也兄は立ち上がった。まだ飲みかけのコーヒーが入ったマグカップを片手に、キッチンに入って行く。
カウンターキッチンの向こう側、勢いよくカップを洗う水の音だけが響いた。
「じゃ、なんなわけ?」
俺は食らいつくように言い募った。
量也兄は何も答えずに、ただ唇の端を僅かに引き上げただけだった。
その表情の曖昧さに、俺は鳩尾の底が冷たくなるのを感じた。続けて、声も出なくなった。
「とりあえず、変に動いて、二人を刺激しない方がいい、って俺は思う。反対されたらムキになる。少なくとも梓はそう言うタイプだ」
素っ気なく言い切って、量也兄は洗い終えたカップを荒い籠に伏せた。白いシャツに包まれた腕の隙間に、四人分の箸の先がひょっこりと覗いているのが見えた。
兄弟間には異常な問題が沸き起こっているのに、箸の並びが暢気で楽しげで、なんだかわけもなく無性に腹が立った。
「医学部に進むときもそうだっただろ。自分の切り傷の血とかでも気分悪くなるんだから無理だって止めたのに、結局入っちまった。あいつはそう言うところがある」
多分、正論なのであろう量也兄の言葉を聞いているだけでも頭まで痛くなって来て、俺はテーブルを叩きつけて立ち上がった。
「諒?」
驚いて、量也兄がこちらを向いた。
先刻の滲みが欠片も揺れていないのは、理性で引っ込めたからなのか。それともカウンターキッチンが薄暗くて、光に似た滲みを隠してしまっているからなのか。
そんな些細なことにさえ、腸が煮え繰り返った。
問題は梓から起こっていると言っても過言ではないのに、量也兄の言動が庇っているように聞こえたからかも知れない。
どうして庇うんだ? どうしてちゃんと叱責するなり、窘めるなりしない?
間違ってることを放っておくのか? 梓がムキになると、自分の意志をブッ千切るタイプだから? なにかしでかしそうだから?
おかしい。絶対に、オカシイ。そんなところもオカシイ。そんな腫れ物に触るような態度。
俺には一度もしたことがないじゃないか。
そう。浪人したときだって、留年したときだって。
あれ?
俺、ヤキモチ焼いてるのか? 末っ子に? 大事にされている実感がないから?
そんな馬鹿な? 弟や妹の世話に追われる親にかまってもらいたくて乳児退行する子供じゃあるまいし。
確かに、物心がついた頃、お袋に言われていたのは「諒ちゃんは後でね」「お兄ちゃんなんだから、少し我慢してね」なんて言葉ばかりだったけれど。別段、ムカついたり、親の袖を引いたりはしなかった。
あの頃、幼いには幼いなりに、俺は弟を守らなくちゃいけないと思っていたし、実際、梓は守るに値するくらい小さくて可愛かったのだ。
動物の子供は、自衛能力がないから、無条件に周囲に守ってもらうために、可愛らしく作られるものなのだと思い知ってから振り返っても、今の小憎らしい性格を知っていても、当時のヤツは可愛かった。くどいようだけど、本当の話だ。
ちなみに、俺は良く「女の子みたい」と評されるから――それが二十歳を越えた男に対しての誉め言葉じゃないことは、発言する相手にはわからないらしい。中学の頃、女と間違えられて、男から告白されたなどと言うトンでもエピソードまであったりする――自身も、それなりに可愛かったんじゃないかと思うのだけれど。そのへんは、自画自賛になるので、あえて言わない。
「なんかッ、気分悪いから、散歩して来るッ」
俺はそう言い捨てて、リビングを出て行った。量也兄を振り返ったりはしなかった。
「もう、俺、出るから鍵持って出ろよ」
そんな言葉だけがついて来た。
俺の足は、自然と兄貴の店に向かっていた。
駅の誇線橋を渡り、南口から北口に出る。駅前の賑やかさは雲泥の差だ。南口は住宅街を重視しているから、日々の生活に困らない類の商店街しかないのだが、北口は駅ビルやデパートもあって、昼間はわざわざ電車に乗ってまでやって来る買い物客が行き交っている上に、夜は夜で、洒落た居酒屋やカラオケがあるせいで深夜まで賑わっている。
勇仁兄が店を持っているのは、そんな賑やかな商店街の中ほどだった。なんのことはない洋服屋さんってヤツなのだけれど、これがまた意外に繁盛している。
まぁ、そのお陰で俺や梓は大学に行けているわけだが。
俺は一度通り過ぎてから、また戻って、身を捻るようにして店内を覗いた。
土曜の昼下がりだけあって、店内には十人程度の客で溢れていた。
つまり、店舗にはその程度で溢れてしまうほどの広さしかないと言うことだ。
奥に制服姿の女の子の二人連れがいて、梓が接客をしている。すごい笑顔で。
なんだ、こんな顔も出来るんだ。こう言う表情は昔と変わらないじゃないか。いつもこうしてたらいいのに。
久しぶりに見た満面の笑みの向こうで、また、勇仁兄が見たこともないような笑顔で接客していて、むず痒いみたいな違和感が生じた。
俺が知らなかっただけかも知れないけど、梓はいつからこうやって店の手伝いに来ていたのだろう。
なんか無茶苦茶馴染んでないか?
まるで二人の店みたいだ。
うげッ。
二人の、って、嫌な想像しちゃったよ。
想像を追い払おうとして、首を振った。
「諒! 諒ッ! りょ~うッ!」
背後からけたたましく呼びかけられて、俺は振り返った。
落ち着きのない名前の連呼から想像した通り、まさに案の定、量也兄だった。
なんだよ。なにしてんだよ。仕事行くんじゃなかったのかよ。
「はっずかしいからッ! そんな大声で呼ぶなッ。街中に知れ渡るから。俺の名前が」
言いながら、量也兄の傍まで歩み寄ると、俺は思い切り胸元をどついてやった。
「あ、ごめん。ごめん」
量也兄は本気で済まないと思っているふうでもない口調で、暢気な謝罪を口にした。
「で、なんだよ。仕事行くんじゃなかったのかよ。こんなとこでうろうろしてたら遅刻するぞ」
「もう行くよ。でも、ちょうど福引が今日までだったからやってから行こうかと思って」
量也兄は、それが持ち味の、傍にいる誰もを安心させてしまう特有のほのぼのとした笑顔を浮かべた。
いつもなら、この笑顔を見ると、苛々したりぴりぴりしたりしているのが馬鹿馬鹿しくなって、萎えてしまうのだけれど。今日はちょっとばかり、苛立ちの方が勝った。
「福引~~ッ? まぁた、そんなおばちゃんみたいなことで足止め食って~~ばっかじゃないのか~ぁ」
「そうぽんぽん言うなって。そう捨てたもんじゃないぞ。福引も」
家を出たときのまま、カリカリしている俺に、少し唇を尖らせてから、量也兄は財布を引っ張り出した。
何をしようと言うのだろうと見ていると、厚みのある白封筒を取り出して見せた。愛想もクソもない「一等」の文字がプリントされている。
「当たったッ!」
量也兄は、弟の俺でさえここまではしないと言うような屈託のない笑みを浮かべ、封筒を突き出した。
俺は少し身を引いて、改めて封筒の表書きを見た。このなんの飾りもない封筒に収められてちゃ、「一等」も霞むな、な~んて思いながら。
「なにが? 商店街お買い物券?」
「違う、違う」
量也兄は思い切りぶるぶると頭を振った。
「二泊三日十和田温泉郷4名様ご招待~~ッ」
「ふ~ぅん……」
良かったね、と聞き流しかけて、次の瞬間、
「ええ~~~ッ! マジでッ? マジで温泉ッ?」
俺は、素っ頓狂な声で叫んでいた。